重い土産

「嘘だろ、、」

大阪にきて三日が立ち、最終日の三日目の朝を迎えた僕はホテルのダブルベッドの上で一人絶望していた。
理由は明白である。せっかく「ワーケーション」と銘打って大阪にわたっていたのに、何一つ作業が進まず、かといって遠出ならではの観光とやらもろくにできなかったのである。
リュックには5冊ほどの参考書や小説、片手にはPCを携え、完全装備で大阪に向かったつもりだった。
大阪にいってやったことといったら、少しばかりの観光まがいのことと、ホテルに入り浸ってネットフリックスやアマプラを無意味に見漁っていたことくらいである。

しかし、この大阪「旅行」をこのまま終わらせていいものか。せめてもの思いで、このノートを書き綴っている。この大阪渡航は自分にとってどんな意味があったのか、それは今後の未来にならないとわからないが、なぜこのような旅行になってしまったのかを見返すことで、強制的にこの渡航に意味を見出すことができる。いわば、ただの自己満足、オナニーと同じである。

まず、私がこの旅行を総括するなら「楽しくなかった」この一言で占められるだろう。

この理由の一つとして本渡航で私が気づいた点がある。「旅行って、一人でやるのおもんなくね?」ということである。
私は散歩を日常的に行っていたので、一人行動に基本的に慣れていると思っていた。しかし、旅行は散歩とはまるで違う。
旅行は基本的に数日間で行われる。私は、数日間一人で誰とも会話をすることなく旅行することが耐えられなかったのである。

何か明確な動機があって旅行にいくなら、特に人を連れていく必要はないかもしれない。しかしただ漠然と「家ではないところにいきたい」という動機だけで大阪に出た自分にとっては、誰とも話すことができないのは苦痛でしかなかった。
そもそも私にとっては、観光地という場所それ自体に意味はないのかもしれない。今まで私は「観光地」ではなく、「あの人と行った観光地」を楽しんでいたのではないかということだ。
城やなんたらタワーにいき「この城高くない?」「思ってたより小さいね」という他愛もない(それでも自分にとってはかけがえのない)会話ができる観光地を望んでいたのであって、私はどこの「場所」も望んではなかったのである。

大阪城や天満筋商店街など、比較的有名といわれる観光地に行ってもただ写真をとって時折「あれ、なんでここ来てんだっけ、楽しくないなー」と思っていたのはこのせいであったのだろう。

また、ワーケーションに関する学びも一つある。それは「他になにもすることがないほど何もない場所」に行かないと自分の作業ができないということである。一見これは矛盾しているように見えるが、考えれば当たり前のことであった。大阪は言うまでもないが一級の観光地として知られ、探せばきりのないくらい魅力的な場所である。そんななんでもできる場所に「家ですらやる気が起きてないのに、これを機に仕事を効率的に進められると思ってる奴」が来ても、何も進捗がないのは自明であった。なぜそんなことに行った後に気づくのか。
ワーケーションは周りに何もない場所のほうが捗る。そんな当たり前に改めて気づかされた。


家への帰り道、リュックが行きの時より重いと感じたのは、お土産のせいではないようだ。

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