『断絶の時代 来たるべき知識社会の構想』知識労働者はバージョンアップする段階に入った(他社の歴史)
知識労働者を調べようと、提言者であるドラッカーの本を久しぶりに読んだ。彼の本で気をついけていることは二つある。ひとつは、いずれの本も分厚いが、その本で伝えたいことは「1行」で収まる傾向があるので、まずそれを探す。もうひとつは、上田惇生の翻訳でないものを読むことにしているということだ。以前に『現代の経営』を野田一夫監訳版、上田惇生訳版を比べると、前者の方が原文に近かったからだ。したがって、今回は1969年に発刊されたもので、村上恒夫監訳を手に取った。
この本でドラッカーは知識労働者を「知識労働者は自らの知識と判断で、責任をもってリーダーシップを発揮し、それによって給与をうけとっているのだ。しかしながら知識労働者には”ボス”がいる。事実、知識労働者の仕事が生産性に結びつくにはボスが必要なのだ。そして通常、ボスはそれぞれの専門知識をもつ知識労働者と同じレベルのメンバーではなく、”マネージャー”なのである。マネージャーに要求される特有の能力は、計画、組織、統括ということおよび専門または専攻分野がなんであれ、知識労働者の職務の結果を評価することである。」とまとめている。「しかるに知識労働者は、自らを雇用者でもなく、被雇用者でもない”専門家”に属するものと考え、従来の弁護士、教師、脱教師、医師、官吏と異なることはないと思っている。知識労働者は組織体があってはじめて職と収入の道が開かれていることを知っているし、組織体のほうとて知識労働者なくして成り立たないことも彼らは知っている。」としている。
問題は知識労働者の知識とは何かをドラッカーが語っていないことだ。弁護士には法律の知識があり、医師には医学の知識がある。そこから推測するならば、組織体の知識労働者の知識は、その会社固有の知識を指すことになる。これは大きな問題だ。つまり、知識労働者はその会社を離れたら知識が役にたたないことになるからだ。もちろん、管理技術などの普遍的な知識は水平移動させることはできるのだが、その会社独自の固有技術の知識は他社や他業界では意味をなさない。しかも、弁護士や医師の知識がAIに代替できるように、知識労働者の「知識」は、DXと称してシステム化される傾向が強い。要するに、ドラッカーの提唱した知識労働者は再定義し、バージョンアップしなければならない段階に入ったということになる。
ドラッカーの視点は、日本人にはないものがある。例えば本書に、白人労働者のブルーカラーが知識労働者になることによって、未熟練の工場労働者が黒人だけのものとなり、新しいゲットーが形成される危険性を指摘している。その解決策として、「黒人たちに大量生産工場や職人的熟練労働の職業を与えることは緊急の必要事であるが、それ以上に必要なこのは、できる限り早急に、できる限り多数の黒人に知識労働の職を探し出し、つくり出し、能力あるものを見つけ、職につけることであり、そのために、全力で努力することが要求されるのだ。」とし、さらに、「知識的職業にあっては、技能的労働の職業よりも黒人への抵抗感は少ない。知識的職業は非常に急速に拡大しているので、黒人が競争者として脅威となる程度は少ない。」とまでいっている。ドラッカーはユダヤ人なので、私としては、生きていたらパレスチナ人をどう考えるか聞いてみたかったが、日本の技能実習生を黒人労働者と位置づけると問題は同じことになる。
手にした本は、1969年(昭和44年)に初版がダイヤモンド社から発売され、10年後の1979年(昭和54年)に57刷になっている。野田一夫氏が最初にドラッカーを日本に紹介した際、ダイヤモンド社にはその価値が理解できず、自由国民社から『現代の経営』が出版されたとは考えにくいほどのベストセラーだ。