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『パン・ヨーロッパ』ヨーロッパを生み出すための「変容型シナリオ・プランニング」となった1冊(世界の歴史)

 オーストリア人(母親は日本人)であるクーデンホーフ・カレルギーの1923年に出版された『パン・ヨーロッパ』を鹿島守之助(ドイツ大使館勤務の外交官で、後の鹿島建設社長)が日本語に訳したもの。そしてその後、1961年に鹿島研究所から再出版したのがこの本。『パン・ヨーロッパ』はヒトラーによる焚書となり、ヨーロッパでは葬りさられたが、パン・ヨーロッパ運動はフランスの政治家たちに受け継がれ、ドイツとフランスが中心となり、EC、EUとなった。つまり、マルクスの『資本論』が、ソ連を生み出す「変容型シナリオ・プランニング」(未来に影響を及ぼすためのプランニング)となったように、ヨーロッパを生み出すための「変容型シナリオ・プランニング」(合意形成)となったものだ。

 ヨーロッパの概念は、ギリシアとペルシア帝国との対立から生まれた。ギリシアを中心とした当時の境界は、地中海とエーゲ海、マルマラ海と黒海、ポスポラス海峡とダーダネルス海峡だった。半ギリシア人であるアレキサンダー大王は、ヨーロッパとアジアの政治的区分を取り去って、最初のヨーロッパ・アジア国家を建設した。ヨーロッパ文化の両端は、ギリシア的個人主義とキリスト教的社会主義だ。

 1923年当時の世界ブロックの人口は以下。

1)パン・ヨーロッパ 429百万人
2)イギリス帝国   464百万人
3)ロシア国     150百万人
4)蒙古族      520百万人
5)パン・アメリカ  209百万人

 ここにあるように、『パン・ヨーロッパ』でカレルギーはイギリスをヨーロッパとみなしていない。対抗すべきものではないとしている。理論上は、大ブリテンとアイルランドがパン・ヨーロッパに加わり、その植民地や自治領が加わらないことも考えれるとした上で、イギリス帝国解体になるので、現実的でないとしている。
 さらに、パン・ヨーロッパはロシア来襲の防止でなければならないともしている。ヨーロッパは26の国家に分裂しているが、ロシアは政治的に統一していて、その領土はパン・ヨーロッパの四倍ある。ロシアはトルコに対する短い国境を除き、陸上よりパン・ヨーロッパの唯一の隣接国であり、組織化、産業化されたロシアに対し、いかなるヨーロッパの国家も対抗できないとしている。面白いのは、ヨーロッパに対するただひとつの賢明な政策は、ロシアに対するいかなる不慮の事件に対しても確保された平和条約の遂行とし、すべてのヨーロッパ国家のヨーロッパ・ロシアの国境に対する連帯的政策、ならびにロシアの驚異に対するパン・ヨーロッパ防衛同盟によってのみ可能であるとしている。ヨーロッパ諸国は結合し、永続的家族争いはロシアに対する防衛力を弱め、いかなるヨーロッパの戦争も、ロシアに対し干渉の好機を与えるだろう。そして、一度ロシアの軍隊がヨーロッパに足を踏み込めば、彼らはもはや自由意志によってはさらないだろうとも言っている。そして、ドイツとロシアの接近がないようフランスの態度が重要で、ドイツとフランスの争いは、両国とも勝者ではなく、ロシアが勝者となるのは確実だとも主張している。つまり、カレルギーは現在のNATOの青写真も描いているのだ。

 パン・ヨーロッパの経済的模範はパン・アメリカで、全ヨーロッパの発展に対する政治的模範はパン・アメリカだ。そして、まずヨーロッパが、しかる後に人類が結合することが必要だとも言っている。

・無秩序の代わりに組織
・戦争の代わりに仲裁裁判
・競争軍備の代わりに軍縮
・自助の代わりに連帯保証
・競争の代わりに協力

 第9章でわざわざ「ドイツとフランス」という章をもうけ、彼らの陥っている恐るべき危機を脱し、結盟したヨーロッパ人として現れ出るか、もしくは互いにかみ合って、双方に傷ついて倒れるかであると断言。その後、ロシアとトルコが二百年もの間宿敵だったが、今は親しい同盟を結んでいるとか、ブーア人とイギリス、スペインとフランス、プロシアとオーストリア、ベネチアとジェノアなどの数世紀の争いですら民族的な憎悪感情はないと説得している。

 ヨーロッパは有史前、歴史的に数多い民族移動が行われ、もはやヨーロッパに純粋な人種はいない。ヨーロッパのすべての民族は混血民族だ。アーリアの移動民とモンゴルの原住民との、金髪人種と黒髪人種との、長頭人種と広頭人種との雑種だ。精神的な共同体として諸国民は存在するが、すべての国家は連邦的結合をすることで、失うより得ることがより大であろうと説得している。

 『パン・ヨーロッパ』が出版され、1)パン・ヨーロッパ連合が創設され、2)機関誌パン・ヨーロッパ評論が誕生し、3)各国に国別のパン・ヨーロッパ協会がもうけられた。1926年(『パン・ヨーロッパ』が出版され3年後)にウィーンで第1回パン・ヨーロッパ会議が開催され、2千名以上の人が集まったという。1933年にヒトラーにより、ドイツにおけるパン・ユーロッパ運動は禁止されたが、1960年になって、ド・ゴール将軍が国家連合の結成を提案したことで、再び注目されることになった。そこでカレルギーの友人であった鹿島守之助は1961年に本書を再び復刊したのだ。カレルギーがこの本を出版したのは29歳だった。

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