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『脳の中の過程 解剖の眼』養老さんは最後の解剖学者

 本書の原本は哲学書房から刊行されたとあり、哲学書房の中野幹隆氏のおかげで出来上がっと「あとがき」にある。ついでに中野幹隆氏を、大変真面目な方で、はじめてお会いしたときは、これはいずれ精神病院行きではないかとつい思ったとか、哲学書房という会社名からも、中野氏の作る本は、営業は無関係という気がして気が楽だとも書いている。おそらく変わった人だったのだろうが、素晴らしい編集者だったのだろう。

 本書は養老さんが雑誌に書き散らかしたエッセイをまとめたものなので、全体で一つのテーマが浮かび上がるようなものではないが、脳についての養老さんの考えがまとめてある。しかし、しょっぱなから「脳出し」の方法が具体的に書いてあるのは驚く。東京大学医学部には、脳出しした、夏目漱石、横山大観、浜口雄幸などがあるという。

 フランスの哲学者フーコについても触れられている。フーコはアルファベットを用いることが、西洋の科学的思考を生んだと考えているそうだ。彼ら西洋人にとって、一見バラバラであり、個々には無意味な記号を結びつけて「語」を作るとき、その組み合わせが出し抜けに意味を持つことになる。このことからフーコは、一見偶然な現象を結合して、論理的な筋道に至るプロセスには、それは可能だという信念がないとできないことだと考えているそうだ。養老さんは、それなら形に意味がある漢字を用いる国民は、いきなり意味を追求することになり、意味を組み立てようとするアルファベットと同じように、われわれ日本人は物事の意味を見てとることに敏感となると考察している。

 役所の世界がソフトをハード化した結果だという考察も面白い。「判で押したような返事」「杓子定規」はその典型だ。ソフトがハード化することを生物では本能という。生物の世界では、生まれつき固定化した行動を本能と呼ぶ。養老さんの固定化した行動は、読書のようだ。通勤電車はもちろん、家でも読むし、風呂でも便所でも、歩行中にも読む。しかし、読んだものがどこに行くかはわからない。インプットしているはずなのに、アウトプットがほとんどないとも言っているが、随分とたくさん本を書いているので、それは謙遜だろう。

 解剖学は完成された学問だ。電子顕微鏡で細胞を覗いたり、クローンだ、臓器移植だ、再生医学だ、という時代には人体解剖は、時代遅れの学問だという。それが証拠に東京大学には、解剖学教室という名のセクションはもうない。養老さんは最後の解剖学者ということだ。ちなみに、哲学書房を検索してみると、2016年1月31日をもって廃業いていて、中野幹隆氏は2007年1月14日に64歳で亡くなっている。 

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