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Someday ―1992年、18歳、ヤクルトスワローズ Ⅱ


ラジオをつけて仕事をしてると、昔何度も繰り返し聴いたのに今ではまったく聴かなくなってしまった曲がふいに流れて、記憶がその頃にプレイバックすることがある。

少し前に佐野元春「Someday」のイントロが流れたとき、眠っていた記憶が急に再生されて胸をかきむしられるような感覚があった。

18歳、高校三年生の秋。
その頃何度も聴いた佐野元春。
「ガラスのジェネレーション」「約束の橋」、そして「Someday」。
自分にとって1992年といえばこの3曲だ。

そして曲に引きずられて思い出す、1992年の日本シリーズ最終戦。
神宮球場レフトスタンドの後方で、スタンドに紙吹雪が舞い散る中、青いユニフォームを着たライオンズナインが森監督を胴上げするのを茫然と見ていた。

 


その頃のプロ野球は今よりもたくさんの人に見られていて、そのプロ野球の一年の集大成といえる日本シリーズは今よりはるかに注目度が高いイベントだった。

西武ライオンズとヤクルトスワローズの対戦となった1992年の日本シリーズは、「西武優位」と伝えられていた。
直近5年間で4度の日本一。
一昨年は巨人、昨年は広島を倒して日本一になっている。
チームは投打に完成されていて、14年ぶりにリーグ優勝をはたしたヤクルトが西武相手に「どこまでやれるか」という空気が強く漂っていた。


私は当時ヤクルトファンで、高校の同級生N君と何度となく神宮球場に行っていた、

N君は父親がヤクルト本社に勤めている重役だったらしく、N君に「今度いついつの試合見に行こうよ」と言うと、だいたい彼がチケットを用意してくれた。
そうして私はN君と何度も神宮に行った。
当時スワローズは野村監督就任三年目を迎え、池山、広沢、古田と若い主力選手がどんどん伸びてきて優勝争いをするようになっていた。
そしてその年、阪神タイガースとの熾烈な争いを制し、14年ぶりのリーグ優勝を果たす。


リーグ優勝を果たせば、次は日本一を決める日本シリーズだ。
その年の日本シリーズは最初の土日が神宮球場、火水木曜日が西武球場、そして六戦、七戦が行われるなら再び土日で神宮球場という日程だった。

N君と相談し、私たちは第二戦と第六戦を見に行くことにした。もちろんチケットはN君がお父さんから手に入れた。


第二戦。
球場に足を踏み入れたときの「神宮球場で、日本シリーズが見られるなんて…」という感慨と、その先発が長年故障で苦しんできた荒木大輔という二つの感慨があった。
荒木は清原にホームラン打たれてスワローズが負けるのだが、「ああ、やっぱりライオンズ強いな…」くらいの感覚があった。


その後シリーズはライオンズが連勝して3勝1敗に持ち込み、日本一に王手をかけるがそこからスワローズが粘って一つ勝ち、対戦成績はスワローズの2勝3敗に。

向かえた第六戦。

このときはN君(のお父さん)が用意した座席がバックネット裏に近いすごく良い席で、近くでフジテレビ「プロ野球ニュース」の中井美穂アナウンサーがリポートしてるのが見えた。
近くで見た中井アナは画面で見るより美人で、私とN君は一瞬でファンになった。
なので数年後中井アナが古田と結婚したときは一瞬古田が嫌いになりかけた。

第六戦は逆転に次ぐ逆転のシーソーゲームで、スワローズは何度もライオンズに勝ち越されそうになりながら、最後はそれまでほとんど打ててなかった潮崎から秦がサヨナラホームランを打って激勝。対戦成績をついに3勝3敗の五分に戻した。


ここまで来たら明日の第七戦も行くしかない。

逸る気持ちでN君に「これ、明日も行くしかないでしょ!」と言ったらN君は言った。

「え…マジで? 明日、学校だよ?」

そう、この年の日本シリーズは一試合雨で中止になったのが影響して、最終戦第七戦が月曜日のデーゲームになっていた。


試合終了後、私たちは外野スタンド裏にあったチケット売り場に行き、翌日第七戦の外野自由席のチケットを買うために並んでいた。
この年はシリーズが第七戦までもつれると思われていなかったらしく、第六戦終了時点でも若干まだチケットが残っていた。

並びながらしばらく隣のN君と

「いいじゃん、明日行こうよ」

「ええ…いや俺はいいよ」

「いいじゃん、行こうよ」

みたいなやり取りを何度も繰り返したが、N君の意思は揺るがなかった。

「なんだよ…」という気持ちがあったが、このときの私は考えていなかった。

われわれは進学を控えた高校3年生だったということを。
私たちの通っていた学校は大学付属校で、成績はもちろん内申点も進学希望に影響してくることを。


今にして思うとN君は大人だったように思う。
そして自分は行かないのに、チケットを買う私に付き合って一緒に並んでくれていた恩義を、そのときの私はあまり感じていなかった。


N君は行かないと言っているのに、私は第七戦のチケットを二枚買っていた。
この一世一代の試合を見るのに、誰か誘おうとしたのだ。

今だったら自分1人で行くのに何も躊躇はないが、このころの私は「1人で何かする」ことが苦手だった。必ず誰か誘おうとした。

家に帰って、まずN君以外に野球に行ったことのある友人をリストアップして、電話をかけた。

ベイスターズファンのY。
「いや行かないよ」断られた。

同じくベイスターズファンのS。
「明日行くの!?すげえなあ」ほめられたけど誘いは断られた。

どこのチームのファンというわけではないが、何回かナイター観戦には行ったI。
「いやー…やめとくわ」

みんな断られた。当たり前だ。学校があるのだ。


「明日、学校休んで、日本シリーズ見に行かない?」と言うと、みな第一声で「ええっ!」か「はあ!?」みたいな反応をした。
そんなに驚かなくてもいいような気がしたんだけど。

そんなとき、フッと浮かぶ人がいた。

野球部のS君。
正確に言えば、この夏まで野球部「だった」S。

S君と遊んだことはいくらもない。
野球部だった彼は授業以外は基本的に練習があり、あまり遊んだりする時間がなかった。
野球部を引退した夏以降、大勢で一度遊んだことがあったことがあったくらいだ。

そんなS君に日曜日の夜に電話し、「明日、学校休んで、日本シリーズ見に行かない?」とまた言う。
無理かもなあ…と思って返事を待ってると、S君は普段と変わらぬテンションで「おお、日本シリーズか。いいなあ」と言った。そして「行くか」とすぐ言った。

あまりに迷いないのでこっちが面食らって「え、いいの…?」と聞いてしまうほど、いとも簡単に彼は承諾した。
待ち合わせを決めて電話を切るまで5分かかわらなかった。


翌朝、学校に「今日ちょっとおなかが痛くて」みたいな電話をした。
このときの親の反応をまるで覚えていない。
「やれやれ」とか「しょうもないな」くらいには言われたかもしれないが、学校休んで野球見に行く息子を両親は怒鳴ったり責めたりはしなかったはずだ。

待ち合わせのJR信濃町駅の改札にいくと、時間通りにS君はやってきた。
どうやって親の公認を得たのか、あるいは得ないで出てきたのか聞いたはずだが覚えていない。

神宮球場の「外野自由席」の列に私とS君は朝早くから並んだ。
途中でS君と交代でトイレに立った際、「一人で来ていたら、この列から外れてトイレに行くのもままならなかったんだな…」と思った。

球場の外で2時間並んだ私たちが座れたのはレフトスタンドの、ライオンズ応援団の上の方の席だった。
10月の終わりのデーゲームは暖かく、試合が始まるころには「今ごろ学校は昼休みだな…」と思っていた。

試合はスワローズ・岡林とライオンズ・石井の投手戦になる。
スワローズ1点リードのまま進んだ7回、ライオンズがチャンスを作るが、打席はピッチャーの石井。
岡林はずっとライオンズ打線を0点に抑えてる。
「ここは余裕だろう」と構えていたら石井の打球はセンターに飛び、懸命に追いかけた飯田がグラブを差し出したがボールはこぼれ、試合は同点になった。
飯田が取りこぼした場面は座っていた場所からちょうどよく見えて、あの映像はいまだ目に焼き付いている。

その後スワローズのチャンスが何度かあったもののすべて得点できずに回が進み、延長戦に入った。
延長に入る直前あたりにライオンズが四番の清原をメンバーから外す異例の交代をしたとき、S君が「うわ、清原はずすんだ。こんなの見たことない」とつぶやいた。
確かに私も見たことなかった。
今すごいものを見ている、という実感が一番湧いた瞬間だった。

延長10回、犠牲フライで得点を入れたライオンズが勝ち越してしまう。
その裏、ここまで一人で投げ続けたライオンズの石井が最後はハウエルを三振にきって、試合が終わった。
マウンドに集まるライオンズナイが森監督を胴上げする。
前方に見えるライオンズ応援団だけが紙吹雪を撒いて狂喜する中、私たちはそれを茫然と見ていた。
「ちくしょう」「くやしい」「終わった」「もうちょっとだったのに」が交互にやってくる感情を、持て余していた。

そんなときに隣のS君が「惜しかったね」と言った。
ヤクルトファンでも、西武ファンでもなかった彼は、「日本シリーズ最終戦を現地で見る(学校を休んで)」という体験に惹かれたとしても、その上で彼は私につきあってくれていた。


翌日、学校に行くとクラスメイトたちから「おまえ、昨日神宮行っただろ」と断定された。
N君が彼らに話したとかではなく、当時私は学校の休み時間にスポーツ新聞を読んでるような生徒だったので、「これは行ったな」と思われたらしい。

担任教師がホームルームで入ってくるなり、クラスメイトの誰かが「先生、伊野尾は昨日神宮に野球見に行ってました」と報告したので「バ、バカ…!」と引きつっていたら先生はチラッとこっちを見て「そうなのか」と言う。
しょうがないので「行きました」と言うと「あとで反省文書いてこい」と言われ、そのままホームルームが始まった。

うわー…これ内申点に響くやつ?そうなのかな?とか思っていると、ハッ!とあることに気づいた。

S君も同じクラスなのだ。
彼も昨日学校を休んでいるのに、彼が私と一緒に日本シリーズを見に行っていたことはまったく周りにバレている様子がなかった。
チラッと彼の方を見ると、彼は無言で一時間目の教科書を出したりしていた。

 

 

あれから28年が経った。

先日、長谷川晶一さんが1992年と1993年、スワローズとライオンズが対戦した2年間の日本シリーズの秘話を当時の選手、監督、コーチなど50人にインタビューし、実際の試合展開とともにその時の選手の話を再構築したノンフィクション「詰むや、詰まざるや」が発売になった。

 


 

当時わからなかったグラウンド上の駆け引き。
記者向けのコメントに隠されたある狙い。
知らないところでミスが起きていたり、監督のサインを意図的に無視したプレーが結果的に功を奏していたり、知らなかった話ばかりだった。

「詰むや、詰まざるや」を読んでいると、あの日の神宮の光景を思い出す。

 

 


S君とは高校卒業まで交流が続いていたたが、大学進学してからは距離が開いてしまった。
ただ、大学4年になって就職活動がうまくいかないときに連絡して電話で相談に乗ってもらったことがあった。
彼にはずっと感謝をしている。

 

 


N君とは高校卒業後も交流が続き、翌年1993年の日本シリーズも見に行った。

ハウエルが工藤からホームランを打った第一戦。
飯田の“奇跡のバックホーム”が出た第四戦。
不振にあえいでいた秋山幸二が満塁ホームランを打った第六戦。

みんな球場で見たことは覚えているが、どういうわけか1992年ほどの記憶がない。
第七戦も行くはずだったが、第六戦の西武球場で風邪をひいたのか、体調崩してドタキャンしてしまった。
高津が胴上げされる瞬間は家のテレビで見ていた。


N君は大学卒業後は有名かつ手堅い全国的な企業に就職した。
しばらくはときどき食事に行ったりもしてたが、お互い結婚をしたりして会わなくなって、もう十数年になる。


あのとき何度もスワローズ戦のチケットを用意してくれた彼のお父さんはどうしただろう。
さすがに退職したかな…と思い、グーグルで検索したところ、いろんなジャンルのゴシップやリーク情報を集めたと思われる情報サイトの「ヤクルト本社の黒い噂」みたいな記事がヒットし、そこに彼のお父さんの名前が出てきた。
8年ほど前に書かれていた記事にはこんな記述があった。

「長年、総会屋や裏社会との交渉をまとめたNは―」

N君のお父さんだ。

ああ、そうか、だから野球のチケットが―。

 

 

 

佐野元春の「Someday」を聴くと、記憶がいつも1992年に飛んでいく。

もう戻れない、ゆえに失われることのない、かけがえのない記憶―。 

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