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新根室プロレス東京大会


サムソン宮本は1965年8月に北海道根室市にある玩具屋の息子として生まれた。
宮本はプロレス少年だった。
1965年生まれの男子は11歳の時に「アントニオ猪木vsモハメドアリ」を見たことになる。
中学時代、学校でプロレス好きの仲間と「昼休みプロレス」という活動を始める。
二十数年後、宮本が「新根室プロレス」というアマチュア団体を始める時に中心になったのはこのときのメンバーだったという。

宮本は札幌経営経理専門学校を卒業したあと、札幌市内の玩具問屋に就職した。
就職後、結婚している。
自身が21歳、妻となる女性は17歳だった。
二人の間にはのちに二人の娘が生まれる。
その後宮本は故郷・根室に戻って家業のおもちゃ屋を継いだ。
家族を養いながら地元で商売を続ける。
日本のどこにでもある平凡な人生。

のはずだった。

プロレス好きだった宮本は地元の仲間たちと「根室プロレス同好会」という集まりを持っていた。
皆でプロレスのビデオを鑑賞し、ときどき中学時代のように公園でプロレスごっこをしていた。

2006年のある日、宮本はヤフーオークションで「プロレスのリング」を見つける。値段は100万円。
宮本はそれを買った。
100万円のリングは輸送費に20万円がかかったという。
それでも友人が提供してくれた町内の空いてる倉庫に持ち込まれたそれはれっきとしたプロレスのリングであり、マットに上がって練習したり技の掛け合いをすることは通常の生活ではありえない高揚を彼らにもたらせた。

やがてリングでプロレスごっこをしていた彼らに、ある欲求が沸き上がる。

「人前で、お客さんの前で、試合がしたいよね――」


2006年9月10日。
根室市にある三吉神社の夏祭りで、彼らは社会人アマチュアプロレス「新根室プロレス」(N2W) を旗揚げする。
団体キャッチフレーズは「無理しない、ケガしない、明日も仕事」。
リングに上がるメンバーは全員、根室市で働く社会人。
「新根室プロレス」の連絡先は宮本の経営するおもちゃ屋「ブルート」であり、電話番号は宮本個人の携帯電話だった。


地元神社の夏祭りで始まった新根室プロレスは好評を得て、年に数回の大会を行うようになる。
アマチュアプロレスであり、目的は「なるべく多くの人に見てもらうこと」である彼らの大会はすべて観戦無料だった。
一方でプロレスの開催には時間とお金がかかる。


どこにでもある平凡な人生が少しずつ形を変えていく。


団体設立の7年後、2013年。
宮本の妻は家を出ていった。
「プロレスに熱中しすぎたのだと思う」と宮本は後年語る。
二人の娘はすでに大きくなっていた。

サムソン宮本はアマチュアプロレスからの「引退」を決意する。

2013年11月3日、「第2回北海道アマチュアプロレスサミット」のメインイベントでサムソン宮本は引退試合を行う。
「レジェンド10番勝負」として次々に選手と戦う試合形式の9番目に登場したのは、別居中の妻だった。
宮本はリングの上で「自分が悪かった、もうプロレスはやめるから、一緒に根室に戻ってきてくれ」と懇願する。
妻はそれに首を振る。そして一枚の封筒を差し出す。
封筒の中には印鑑と離婚届が入っていた。

しばらく膝に手を置いて考えていた宮本は意を決するように顔を上げると書類に印鑑を押し、封筒に詰めて妻に渡した。
「最後に笑って握手して、お別れしよう」宮本は妻に提案する。
少し考えてから、妻は黙ってその手を握る。

するとそこで宮本は妻にプロレスでいうエルボーという技を仕掛け、自身の得意技「サムソンドライバー」を掛けようとする。
そこを妻は逃れ、逆にエルボーを打ち、さらに宮本に「サムソンドライバー」を仕掛ける。
宮本がダウンするとゴングが鳴り、「勝者、サムソンの嫁~!」というアナウンスが流れる。


上記のやりとりはすべて客前で行われている。


プロレスは虚実の被膜が薄い。
どこまでが「実」で、どこから「虚」なのか、見ていてわかりづらい。
その「わかりづらさ」をエンターテイメントにする。
ひとつだけ確かなのは、これ以降もサムソン宮本のプロフィールには「現在別居中」「仮面夫婦」という単語が入り続けたことである。



2017年、宮本は体調を崩す。
病院で診断された病名は平滑筋肉腫(へいかつきんにくしゅ)。
10万人に3人しか発症しないという非常に珍しい病気で、10年生存率が0%、5年生存率が30%という難病。
症例がないため完治するのはなかなか難しい、と医師に宣告された。


「本当に目の前が真っ暗になりました」と宮本は言う。
しばらく時間がたってから出てきたのは
「これから何年続けられるかわからないけど、やれるところまでやろう。そしていつか東京で、新根室プロレスの大会をやろう」
という目標だった。

年に数回、地元の祭りの無料公演やアマチュアプロレスのイベントに出ているだけのローカルプロレス団体にとって、この時点では途方もない夢だった。


「やれるところまでやろう」と考えた宮本はそれまで考えていたいろんなアイデアを投入する。
いろんな「難しい」と考えていたハードルは「いつまでやれるかわからないんだから」という理由の前に倒れていった。
そして「身長3メートルのパンダがいたら面白くない?」というアイデアが出てくる。
2017年7月、毎年恒例の地元神社の夏祭り大会でデビューしたアンドレザ・ジャイアントパンダはSNSに紹介されると「バズった」。

一瞬でプロレスファンの好奇心を直撃したアンドレザは大日本プロレスやDDTといった東京のプロレス団体に呼ばれるようになり、地方のプロレス団体にも呼ばれるようになり、テレビ取材が急増した。
「めちゃ×2イケてるッ!」「行列のできる法律相談所」といった地上波人気番組にも出演し、各地のイベントに呼ばれるようになる。

アンドレザとともに根室から日本の各地へ向かう日々。
その時間のことを宮本は「夢のようだった」と回想する。

そして宮本は決断する。
東京の会場を、抑えよう。そこで新根室プロレス東京大会を、やろう。

そこで、いったん区切りをつけよう――。


「新根室プロレス東京大会開催の経緯と理由」が明かされるようになったのは、今年9月の地元神社の夏祭り大会で宮本が自身の病状と新根室プロレスの解散を発表してからだった。


そうして開催された新根室プロレス最初で最後の「東京大会」。

台風の影響で来られなくなった選手も続出した中、各選手はそれぞれのキャラクターを存分に発揮し、観客は笑いと拍手で答えた。

アンドレザ・ジャイアントパンダは同じく巨大レスラーであるジャイアントZOZOマシンとビッグパン・ベイダーと戦い、途中空気が抜ける「体調不良」に見舞われながら「外科手術」で見事回復して勝利を収めた。

そしてメインイベントで「サムソン宮本13番勝負」が行われる。

宮本は平滑筋肉腫の治療で肺の3分の2を摘出した。年齢も54歳になっている。派手な動きはできない。
有名選手やキャラクターを模した新根室プロレスの選手が次々に入場し、宮本と「無理しない、ケガしない」試合を行う。
客席が笑いに包まれるような動きですら、宮本には負担だったのではないか。
試合の合間に「ドクター」と呼ばれる白衣の男性が宮本の身体をチェックする。毎回同じリズムで同じ個所を見て、「OK」のサインを出す。
試合が進むにつれ宮本はコーナーでチューブ状の管から何かを口に入れるようになる。
それはなんだ、と聞くレフェリーに「点滴だよ、点滴!」と宮本が答える。
口から摂取する点滴というのはあるのだろうか。
依然「虚」と「実」の区別がつけづらい。

そんな状態で13人、最後まで戦いきった宮本の前にテレサ・テンの「つぐない」が流れて一人の女性が現れる。
「別居中の、サムソン宮本の妻、〇〇さんです!」とリングアナウンサーが紹介する。

宮本は過去を詫びつつ、「戻ってきてくれないか」と懇願。
女性は「はい」と受け入れる。そしてゆっくりと抱擁する。

再び思う。
プロレスは「虚」と「実」の区別がつけづらい。その真実は当事者しか知ることはない。

けど、きっとそれでいいのだ。

「『無理しない、ケガしない、明日も仕事』と言っていた自分が無理して、病気して、仕事を休むようになってしまいました」と宮本は挨拶した。

その宮本最後の掛け声は「また元気になって東京に戻ってきます!」だった。




新根室プロレス東京大会、「人生」をひたすら考える興業だった。

人生の晴れ舞台。
人生の転機。
人生のやり直し。
残された人生。

自分には何があって何ができるのか、帰り道にずっと考えてた。

一世一代のものを見せていただきました。

明日も仕事。

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