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社民党とわたし。「月刊社会民主(2020年5月号)」仙台市議会議員 いのまた由美の原稿

みなさんこんにちは。私は「社会民主党・社民党」という政党に所属している自治体議員です。

どのくらいの方に知られているかはわからないですが、実は「社会民主党・社民党」という政党・組織・集団が、今後どんな形で存続するのか、大きな転換のときが迫っています。

「社会民主党・社民党」は、「日本社会党」が1996年に名前を変えて発足した政党です。日本社会党は自民党につぐ勢力を持っていたこともある大きな政党でしたが、なんだかんだの経緯があり、今の社民党の国会議員は4人です。衆議院の定数は465人(小選挙区289人・比例代表176人)ですが社民党の議員は2人、参議院は248人のうち2人です。

https://note.com/sdp_japan

社民党がどんな理念を持っているか、最短の言葉にまとめると「平和・自由・平等・共生」の2文字×4項目です。「人権を尊重して格差を是正する政治が必要だ」という考えがいいと思って私は所属しています。

社民党の「大きな転換のとき」と申しました。

昨年の冬に立憲民主党から「一緒になりませんか」と呼びかけをいただいたのをきっかけに、その呼びかけにどう応えるか・社民党は今後どのように国政に影響力を働かせていくことができるのかを、各地の社民党組織の中で話し合ってきたのです。そうして、その議論の積み重ねを各地から持ち寄って結論を出す臨時党大会が2020年11月14日に開催されることが決まりました。

さいきん、社民党の月刊誌『月刊 社会民主』を読んで、思ったことがあります。感想をひとに話したいなと思ったのですが、そのことを言う前に、私がどういった経緯で社民党公認の自治体議員をめざしたのか、過去に書いた原稿がありますので公開したいと思います。『月刊 社会民主』2020年5月号の「祝当選 自治体議員活動レポート」というコーナーに掲載されました。


子育て当事者による地域づくり
警察の妨害はねのけ再挑戦

(仙台市議会議員 いのまた由美 「社会民主」2020年5月号)

 2019年8月25日の仙台市議選で大きな得票をいただき念願の初当選を果たしました。前仙台市議の大槻正俊さんからのバトンタッチを目指し、二度目の挑戦でした。

201909あいさつ回りスクエア

【社民党入党の経緯】

北海道網走市のひとり親家庭で育ちました。20代なかばに札幌へ転居して市民運動に関わりました。脱原発や平和など札幌の市民運動のリーダー的存在の山口たかさんが2007年参院選、09年衆院選で社民党比例候補になったのがきっかけで、政治運動にも関わるようになりました。比例だけでは運動が限定されるので小選挙区候補者にと声をかけていただき、立候補の決意をして入党したのが30歳の頃でした。

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仲間と私が前面に立ち、ベテラン党員に支えられ賑やかに選挙をたたかいました。格差や貧困、差別と暴力をなくす。憲法を護り、人権を尊重し、新自由主義と訣別するために国会に社民党が必要。でも候補者を立てられずに得票率が下がっている状況がわかり、社民党が小さくなっていくのは惜しい!と思いました。若い我々ががんばり、自治体議員となって地域で信頼を得ていくことが党再建の道筋であると考えました。それが今から10年前のことです。

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【東北へ】

東日本大震災から約二か月後、全国の青年党員に対して「東北ユース」から震災ボランティアの呼びかけがあり、私は首都圏のユース党員らと声をかけあってボランティア団を作って宮城を訪れました。初めての東北地方。気仙沼の元市議の山崎睦子さん宅を訪れたのもこの時です。被災物の片づけを手伝うために津波の被害を受けた沿岸部に立った時の、衝撃。海の幸や畑の幸が豊かだった東北が震災と原発事故で痛めつけられていました。自分が「今、ここ」に生かされているのは奇跡的だと意識しました。

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【子育て支援活動】

ボランティアを呼びかけていた仙台在住の青年党員と結婚をして、仙台へ引っ越しました。

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子どもを産み、育てていく中で、働きたくても働けず、社会との断絶を感じました。子連れ参加OKの子育て支援市民活動に参加し、孤立感や息苦しさを感じていたのは自分だけではないと知りました。子育てを母親の責任とせず社会がフォローする仕組みを早急に再構築しなければ、社会は持続不可能となります。

市民活動で取り組んできたことは、子連れでの外出を促進する「親子マップ」づくり、自主「育児サークル」再生活動、育児当事者の声を集めた本「2歳児サバイバルライフ」制作出版、子連れで集える居場所作りなどです。

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乳幼児子育てを支援する施設はあちこちに存在するようになりましたが、母親が単に子育てサービスの受け手となるだけでは問題が解決しません。子育て当事者が地域づくりや施策に関わることを私は求めています。同様に、こどものない家族、家族に頼れないこども、ケアや配慮の必要な人や障害のある人……マイノリティとなっている多様な方々と共に、生きやすいインクルーシブな社会を求めています。


【2015年7月仙台市議選】

仙台市議会議員の5期目任期中の大槻正俊さんから、次の2015年の選挙には出られないので、私に対し、挑戦する意欲があれば全力で支えるとお話をいただきました。大槻さんは大病をされたため、後継者を育てるとお考えになり、同じ党支部の女性である私にお声をかけてくださったのでした。選挙に出る決意を子育て支援活動の仲間に伝えると、びっくりしていました。15年3月の宮城県連合大会で公認候補と決定し、7月から選挙でした。大槻さんと共に大槻さんの支持者の皆様を訪問して挨拶を続けて、朝は辻立ちをしました。子どもが0歳と2歳だったので、夫や、青森から夫の家族にも家に来てもらい、子どもの世話をまかせました。運動は、大槻後援会の皆様に中心を担っていただきました。所属している党支部や、山崎睦子さんを筆頭に県女性局、党北海道からも選挙カーとして使う街宣車を運んでいただき、実働していただきました。また大槻さんの出身労組の自治労をはじめとして、党宮城県連合と共闘関係にある県平和労組にも大きな力添えをいただき、連合宮城の推薦もいただきました。

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そうして万全の体制で告示日7月24日の前日を迎えましたが、そこで事件が起きました。なんら法的に問題のない選挙カーの使用を、警察が認めず、選挙カーを借り直して作り直しても、またダメだと三度もはねつけられました。選挙2日目の午後に警察は法解釈のミスだった、ごめんなさいと漸く認めたのです。とんでもない選挙妨害で、選挙運動は大打撃を受けました。結果は、87票差で次点でした。

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その後、私、後援会長の大槻さん、社民党県連の三者が原告となり16年4月から裁判を始めました。その間私は、今後の生活を考え、看護専門学校に入学し、2年間学んで准看護師の資格をとりました。裁判で被害を訴え続けることは苦しい経験だったけれど、多くの方から支援を受けて裁判闘争ができたことに感謝をしています。17年4月に勝利的判決を得ました。賠償額は低くても、原告の私だけでなく三者への損害を認められたのが画期的でした。

【2019年8月仙台市議選】

看護学校卒業後の後の18年4月から、次の市議選にむけて本格的に動きはじめました。党宮城県連の特に山崎睦子さんに直接指導を受け、党活動や地域活動、個人の政治活動を続けていました。

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ところが、選挙の1年前、7月30日に山崎睦子さんが急逝されました。私を議員にしようと大きなご支援をくださった恩人は大槻夫妻はもちろん北海道・宮城の社民党の皆さんなど大勢おりますが、山崎さんがいなければ今の私はありません。女性局の吉田貞子さんが作ってくださった「むつこ」というぬいぐるみに、今も議会控室の机の上から見守っていただいています。

 引き続き、大槻後援会長のもと、地域密着の運動を展開しました。裁判でお世話になった砂金直美弁護士にもご協力いただいて、市民相談会の実施。文書行動。ポスティング。朝の辻立ち。後援会事務所は再び大槻さんの支援者の方を中心に、党、労働組合のお力をいただきました。

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 子育て支援活動のママ達も、子どもの預かり合いとポスティングボランティアの組み合わせをするなど、事務所と連絡を取りながら別働で動いてくれました。党や党に連帯する若手議員が応援に入ってくださり、寄り添ってくれたことにも感謝しています。

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【当選後】

当選

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社民党仙台市議団は、ひぐちのりこ議員に続いて私が当選したことにより会派の5名中2名が女性、つまり4割が女性になりました。会派では、優先的に希望する委員会に所属させてもらえたり、定例会の一般質問も毎回登壇することを促していただくなど新人として厚遇を受けています。振り返るといつでも立派な先輩方の背中を見て、引っ張っていただいて、やってきました。第3回、第4回、第1回定例会と必死になってあっという間に過ぎてました。ペース配分を身につけて、地域から信頼と期待を得られる活動を増やしていきたいです。

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(「社会民主」2020年5月号原稿はここで終わりです)

追記:なんで社民党なのか

社民党が私の関心のある社会課題の分野で運動をしていて、市民とともにあろうとする開かれた政党だったから、入ることになりました。

http://inomatayumi.fem.jp/profile/

ひとり親家庭で育ったことが政治を志した原点です。朝も夜も平日も土日もなく、子育てのためにパート・アルバイトで時間に追われ低賃金で働くシングルマザーの母の姿を見て育ち、子ども心にこの若い母に苦労をかけていると感じていました。進路を意識する頃には既に「あきらめ」が私の心を満たしていて、自分を大切にできずにいました。

シングルマザーの貧困、子どもの貧困、家庭の経済力や地方の教育格差問題、ワーキングプア(低賃金労働)・不安定雇用が拡大されてきた労働法制の問題など、「自己責任」とされていることは、実は政治が放置して切り捨てている課題なのではないか。と20代の頃に社会に関心を持ち始めました。

政治・経済制度、戦争、原発、そういった大きな問題も、お空から降ってくる避けられないものではなくて、主権者が地べたから声を上げたり動いていかなければ、都合のいいようにやられっぱなし。切り捨てられ、尊厳が踏みにじられてしまうのだなと、考えるようになりました。

さいきん、福島みずほ党首が、さまざまな場で、政治の可能性や希望を語る際に、フィンランドのSanna Mirella Marin首相の言葉を引用されます。昨年、世界最年少34歳で首相になったフィンランドの社会民主党の女性です。

「すべての子どもが何にでもなれる社会、すべての人間が尊厳を持って生きていける社会を作りたい」

この言葉を聞くたびに、読むたびに、諦めの中にいるこども、奪われ続ける尊厳をおもい、涙が出てしまいます。私も自分のスローガンとして、声に出していきたいです。「すべての子どもが何にでもなれる社会、すべての人間が尊厳を持って生きていける社会を作りたい」。まさに、そんな社会を作るためには政治を変えることが必要だと考えて、この道を歩み始めました。

こつこつ、がんばります。

心ある皆さん、一緒に取組みましょう。



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