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息子先生(夏至前編)

夏至前は、大人になった息子先生の身体を見て吐きそうになっていた(あまりに皮膚の状態がひどくて)専門家に預けるレベルだと思い、病院を探し回ったり、本人を説得したりしておりました。

民間療法のみでお手当するレベルではないと判断したのですが、息子先生は、まったく聞く耳を持たないくせに自分ではお手上げ状態になっておりました(内臓レベルで悪化)。足が浮腫んでパンパンになって寒気が常にしているなんて異常だと思い、病院に行くことを強要したのですが、動こうとせず、いつのタイミングで救急車で搬送すればいいのかと思いながら、庭の薬草でお手当するしかなくて、それでもドクダミが花をつけてる季節だったので、パワフルに肌を癒してくれてました。

それにともなって食事を見直し、足湯で身体をあたため、薬草漢方で習った膏摩で全身をマッサージして、あとは、漢方薬の内服をしてもらっていました。なんせ、本人は、お手上げ状態なので、この1ヶ月は、なんでも言うことを聞いてくれていました。(なんでも言うことを聞くのに、病院だけは行ってくれない)

病院に行かない理由を決して言わない彼に何度も詰め寄ったりもした。

そんなことを繰り返しながら、ふと思った。

日々、状態が良くなってきているけれど、こうやってお手当してあげていることが、そもそも根治を遅らせてる気がしてきた。

肌は、あらわれであって、大もとは、感情や思い癖から、内臓の働きが弱くなり熱をもち臓器が火事になってる状態なのだ。身体の中の循環がうまくいかず、吹き出す場所が皮膚からになっているので、内側の火消しをしなければいけないのだ。

彼が甘えているだけだとすれば、私のするべきことは、

とことん甘えさせる(気が済んだら自立するだろう)or強制的に自立させる(私の自立も含まれる)

とりあえずの対処をしながら、ベクトルを自分に向けてみた。

そして、そんなこんなで、私の一日のルーティン(肉体労働💦)を振り返ってみた。

朝起きたら、部屋中の脱皮した皮膚の掃除をして、昨日から水につけてあるドロドロのパジャマ一式を手洗いして(洗濯機では、落ちないことが途中で判明)シーツを洗って、庭の薬草を抜いて、洗って、煮出し汁を作る。(おかげで庭が綺麗になりつつある)

小豆🫘とかぼちゃ🎃を煮て、薬草茶を火にかけながら、昼食と夕飯の下ごしらえをしながら、ちょっと息抜き😆

夕飯が終わって、ちょっと休憩したら、息子に足湯をしてもらって全身をチンキでお手当して、膏摩でマッサージをして日付けが変わる頃、やっと終了する。

来る日も来る日も、そんな毎日が続いていて、終わりのないお手当の日々に私の肉体の方がギブアップ(朝型なので、夜に弱いのだ)息子先生も無口になる。そして、夏至前に私のストレスがマックスになり爆発。

頑なな息子にお手上げ状態。

小さい時に、薬の弊害を叩き込み過ぎたのも要因になっているのだから、私にも責任がないわけではないのだ。

私の父は、肝炎で大量のカラフルな薬を飲みながら浴びるようにお酒を飲んでいる営業マンだった。肝硬変に移行して医師から入院を勧められ、死を覚悟した時に漢方医と出会い、漢方薬で20年も命をながらえたという事情があって、我が家では、薬は御法度なのだ。

三男がアトピー性皮膚炎で病院に通っていた頃、ステロイドの害を知り、食べ物や身の回りの品々に気を使うようになった。(三男は完治している)

そのせいなのか、次男である息子先生に、西洋医学は、よくないとしっかりと刻まれてしまっていた。

その上、先生という存在に拒否反応をしめしているから、やっかいだ。それが医者だろうが教師だろうが。

そして、もともと、完璧主義なのでタチが悪い。

ほどほどという言語がないのだ。

子育て中に、バッチ博士のフラワーレメディ(イギリスの医師であるバッチ博士が90年ほど前に開発した自然の花や木から転写したもの)を薬の代わりに使っていたのだけれども、博士は、病気のもとは、感情からだということをつきとめて、その大元である感情に働きかけることによって、病を治すことをされた医師でした。

息子先生の病の原因の一つに、言いたいことを言わないということがある。
これは、小学生低学年までは、アトピーになっていなかったことが明らかにしている。

年齢があがるにつれて、先生に不信感を抱くようになった。訴えても聞き入れてくれないことが続き、おかしなルールがまかり通ることに納得がいかず、日本の教育に合わなくなっていくのと比例して、自分の気持ちを言わなくなっていった。

その頃から、肌がカサカサしてきた。関節に痒みが出てきていたが、それほど問題はなかった。

自分の気持ちと社会とを擦り合わせて、その摩擦が肌にあらわれてきたのは、中学生の時からだった。

成績の数字の評価と納得ができない規則、教師に対する不信感に耐えきれず、高校は海外にでた。

自然豊かなニュージーランドで肌はおさまったが(犬猫のアレルギーもおさまっていた)、帰国して、東京の学校へ行き出すと再び悪化する。

一年たらずで、フランスに飛び出るが、フランス語の壁は彼には高かった。二年で東京にまいもどってきて、学校に復学した(学校からの留学だったため)東京での一人暮らしは、それなりに快適だったのだが、食生活は、偏り、ハードな課題をこなしながら、バイトをする生活は、今振り返ると身体にかなり負担をかけていた。

そして、日本の学校は、相変わらず規則が多い。

遠く離れた親に、遅刻をなんとかしてくれと電話がかかる。

それでも大人になった彼は、独自のルールで淡々と学校に通っていた。


お手当をしながら、夏至前に小さい頃の可愛い息子を思いだした。

よくおしゃべりする子だった。頭の中の会話が口から出ている子だった。

いろんなことに興味があって知りたがる子供だった。

でも、知りたいことを教えてくれる大人がいなかったと彼が大人になってから聞かされた。

覚えたいわけではなく、原理を知りたかったのだと、それを教えてくれる大人が身近にいなかったと言う。

そんな、徒然な話を時折、ボソッと話す。

子供の時に、わかってあげていれば、彼の人生も今とは違っていたのかなと、思ったりもするが、すでに時は流れてしまっている。


なかなか治らない肌の状態を、一見するとよくない事のように思うけど、視野を広げれば、最善な出来事なのだから、無駄ではないと彼は言い張る。
(そう思わなければやっていけないのか、本当に無駄ではないのかは、現時点ではわからない)

いやいや、私は、フェーズが違えば、経験する最善な出来事も変わるはずだから、どの周波数で生きているかで、起きる最善は、違うはずだと言ってみた。

今起きてる事象は、すべては、最善な出来事だととらえている彼だが、夏至の後に、そのことについてゆっくり話してみた。

話さないとわからないこともある。

話してもわからないこともある。

それでも、分かり合いたいから話をする。

わかってもらいたくて話をする。

だからといって、

何かがわかったわけでも、
何かが変わったわけでもない。

それでも、私たち親子は、話しつづける。

人生について
人間というものについて
体というものについて

世界について
量子力学について
宇宙について

そして、身近な

気候について
気圧について
湿度について

肉体と意識について

そして

親と子について
親を超えたとしても、子は子なのだ。

私もまた、母が他界したあとに、本当の意味での母の気持ちがわかった。

母と父が他界して、私は子供という立ち位置を失った。それまでは、どんなに歳を重ねても子どもの自分が存在する。そのことは、どんなに私に安心感をもたらしていたことでしょう。

息子たちも私という存在から安心感を得ているのかは、疑問ではあるが、母と子の関係がもたらす問題も沢山ある。

どんな親子であるのかは、様々だけど、親との葛藤がある子もいれば、親との縁が薄い子もいるし、反対に仲の良い親子もいれば、依存しあう親子もいるのだ。

親と子、縁があって親子になった。

来世では、出会わないかもしれないし、恋人かもしれないと思うと、今の親子を楽しもうと思う。




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