松長猊下とお陽さまと、ありがとうおじさん

肉体を持った男性との経験は少なく、片手で済んでしまいますが、相手が霊となると、ひょっとしたら3桁になってしまうかもしれません。

高野山大学スピリチュアルケアコースを修了して何年か経ち、秋に、大好きな松長猊下に栗おこわを炊いてお持ちしたことがありました。
思い切って私の霊障をお話ししたら、

「先にあなたの中に、その体験の元になるものあったんでしょうね。そうでなければ、何も起こりませんからね」と仰いました。因果のことです。

「真言宗は、性欲を否定しませんよね?」と念のためお尋ねすると、

「はい、否定しません。なぜなら、腹が減ったと言うてる者に食うなとは誰も言わんでしょう。それと同じことです」と仰いました。

そう、身体はそんな風にできてるんですから、否定するのはナンセンスですね。性だけを特別扱いして、いろいろ理屈をくっつけ過ぎているのではないでしょうか。道を踏み外しそうになるぐらい、あまりにも魅惑的だからでしょうけれど。

父が置屋にもらわれて過ごしたことがあるように、私自身も、花街で身を売った人生があったように思います。今生、私は相当な色情カルマを背負って生まれてきたのは間違いありません。なぜなら、まだ子どもだったのに、たしかに私の下半身には疼くものがあり、そのエネルギーは刺激によって解放されたがっていました。普通の性欲の芽生えなのかどうかわかりませんが、おなかの奥にある卵型のもの(子宮)を網でこすって、溜まったエネルギーを発散したい!という朧げなイメージを持っていました。痒いところは掻いたら痒さは消えますが、子宮を網でこすって解放したい欲求は、自分では如何ともしがたかったです。

もし霊によって解放されなければ、私の疼くエネルギーはレイプ犯を引き寄せていたかもしれない…と、松長猊下のお答えを聞いてから、そう思うようになりました。少なくとも私の場合は、疼く身体が男の色情霊を引き寄せたように思います。よく、性犯罪被害者に対して「被害者の側にも原因がある」とするものの見方を断じて否定する論調が見られますが、私に限って言えば、私は被害者、霊は加害者、という単純な構図ではなかったように思います。「身体」は、ご先祖さまから受け継いだエネルギーと、自分の輪廻で培ったエネルギーが合わさったものと考えれば、「いま、意識体として身体に入っている自我」に隙があるとか、ないとかの問題ではなく、そもそも「抗いようのないもの」を生まれつき背負っている可能性だって、あり得ます。
私の子宮に取り憑いた「疼く感覚」は、色情カルマを抱えた霊が、寄ってたかって、まとわりついて、さらに巨大化していったのかもしれません。

憑依体質なので、街を歩いているだけで、いろいろ拾ってしまうのです。

たとえば、大学の時、ゼミの飲み会で、大阪の繁華街なんばに初めて行った日の夜は、帰宅後、ネオンと男女の欲情に取り巻かれて、一晩中、うなされ続けてほとんど眠れませんでした。夢うつつの中で目を開けると、布団の周りは夜の街なのです…自分の体質がホトホト嫌になりました。

ある時、朝陽にお尋ねしてみました。

「どうして私はこんな体験をしたのですか?」

そしたら即座にかわいい声で「バランス」という答えが返ってきました。

そうか。バランスを取るためか。瞬間、瞬間、パシャ、パシャ、パシャ、とできごとが起こる。だったらやっぱり、私のおなかの中のエネルギーに呼応したできごとが、起こるべくして起きたのだと思いました。そして、一つ一つのできごとについて、あまり深刻に捉える必要もないのでは?とも思いました。潜在的なエネルギーが顕在化して、バランスが取れたら、それでオワリ。次の瞬間には先へ進んでいるのだから、昔のことをズタ袋に入れてわざわざ持ち歩くのは愚の骨頂なわけで。いつまでも掴まえていないで、手放せばいいのではないかと。

今はもうあの世に旅立たれた「ありがとうおじさん」のYoutubeの問答を思い出します。何があっても、現象化したら、「ありがとうございます」です。なにごとも、手放し、手放し、こだわらない。過去を振り返ったら、何もかも夢のようで、今、その「実態」はどこにもありません。歳のせいか、昔のことは、ますます遠くに感じられます。

おかげさまで現在の私は、霊障に悩まされることはほとんどなくなりました。年に数回、金縛りに遭いますが、解いたらどこかへ行ってしまう実害のないものです。

こんな私の体験が現代社会の性の歪みを元に戻し、再び心のままに親しく男女が気軽に交われる時代を迎えられればと思います。

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