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「読書百遍意自ら通ず?」(2)

 私は仏教徒である。浄土真宗本願寺派の門徒として帰敬式(おかみそり)を受け、第24代門主即如上人(前門さま)から法名を戴いた。
 帰敬式では、三宝(仏法僧)に帰依する三帰依文を唱え、代表者が帰敬文を読む。そこには「親鸞聖人が明らかにされたみ教えを聞く」との誓いの言葉がある。この意味は、何か修行をするとか勤行(経典を読誦)するとかよりも「一にも二にも聞法」を重視するという教団の姿勢が表れている。
 
 その聞法とは何かというと、所依の経典(浄土三部経)あるいは宗祖の著作(多くは『顕浄土真実教行証文類』やそれを和語で表した三帖和讃)の文に基づき(御讃題という)阿弥陀仏の本願(第十八願)の話(法話)を聞くことである。それを話すのは、主に(直轄、直属寺院ではほぼ100%)布教使と呼ばれる僧侶で、本山において布教使課程を修了し任命された人である。名称が「師」でなく「使」となっているのは、(徳の高い僧侶が)上から目線で自分の言葉(意見)を言うのではなく、宗祖の定められたみ教えを正しく伝えるための手法と心得を習得した「お使い」が仏法の「お取次ぎ」をするという意味が込められているためと聞いている。
 
 布教使による法話(布教)以外の聞法として、聖教の学びがある。文字通り聖典の一字一句を丁寧に学ぶ。これを教えるのが、教義に関し深く学んだ僧侶に与えられる位(学階)を持つ人である。通常は5段階ある内の上位3階すなわち、勧学・司教(以上を和上と尊称する)・輔教の学僧から教義を学ぶ。
 
 つまり単なる一門徒であろうとも、「これからも布教使の法話を聞き、学僧から聖教を学びます」と宣言するのが帰敬式であり、法名を戴き仏弟子を名乗ることの意義がここにある。
 
 このことをおざなりにして他のことに注力するのは、門徒としての道から外れていると言われても仕方のないことである。(当然ではあるが僧侶は門徒でもあり、一層厳格な得度式を受けている。)
 
 さてこのことが、「読書百遍」とどういう関係があるのだろうか。実は、聖教に関しては「百回読む」ことは全く珍しいことではない。毎日の勤行では「正信念佛偈」や「讃仏偈」「重誓偈」「三帖和讃」などが良く読誦されるので、「一万回以上読んだ」人はいくらでもいるだろう。だがそのことが、その人が聖教を理解していることの証明にはならない。実際に、門徒の多い地域出身の人で首都圏に出てきて「子供のころからお正信偈を挙げてきたが、こういう意味があるとは知らなかった」という人は少なからずいる。手次寺での法話が子供には難しすぎたとか、聖教を学ぶべき学僧が少なかったりということは普通にありうるからだ。聞法が重要だということの意義はここにある。

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