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毒親育ち視点で見るジャンケットバンク ブルー・テンパランス

御手洗は伊藤班のおもちゃ?

 伊藤主任にお買い上げされた御手洗は、伊藤班の暴力的な洗礼を受ける。その後、御手洗は初仕事としてカレーを取り分け、伊藤主任許可なしの発言の後で天堂を迎えに行かされる。
 御手洗が目指す教会には、手入れがなされた艶やかな髪を伸ばした自称神の天堂の姿。職業・神父なだけあって様々な懺悔話を聞いているが、あまりにも自己中心的な考えにキレて暴れる始末。

 神様がどうこう以前に前に
 人間が許すワケねぇだろ!

 ↑
 それはそう

 神はテメェのオムツじゃねぇんだ
 溜まったクソを押し付けて
 んじゃねぇマヌケが

 ↑
 それもそう

 なお、銀行(の賭場)には寄付を募りに行く模様。

唐突に始まる簡単なカトリックとプロテスタントの違い

 案外、知られていないカトリックとプロテスタントの違い。世界史で「カトリックはスペインが支配した国に広まり、プロテスタントは英国が支配した国に広まった」位なら、多分だが習う。担当教師が説明するか否かはそれぞれだろうが、教科書に載せられた塗り分けられた地図と歴史を照らし合わせれば、その理由が分かる。

 そもそも、カトリックの拝金主義に抵抗したのがプロテスタントである為、教会の豪華さが違う。漫画やライトノベルで扱われるのは、見た目で分かり易いカトリックが多い。神父もシスターも懺悔室もロザリオも、出て来たならカトリックである。(特に第三者を挟まず、チェックもなされない)アマチュア作家の場合、作者がそこまで考えているかどうかは謎だが。

 プロテスタントでは、十字架は木製のシンプルなもので、イエスキリストも磔にされてはいない。ステンドグラスならばあるが、豪華な絵画は飾られていない。宗派によって差は有るにしろ、見た目で豪華な方が大体カトリック

 等と書いてきたが、プロテスタント系の高校で得た程度の知識なので、信じる信じないかはご自由に。なんなら、世界史はⅠAしか習っていないので、割とヘタリア知識由来である。

 宗派がどうこう以前に、「神が 赦す(forgive)」と「人間が 許す(allow)」とで漢字の使い分けがきっちりしている辺り、キリスト教関連知識が根底にあると言う説が有力ですか?

 それを踏まえると、「神は全てを赦される 傲慢な若者の戯言もな」に対する真経津の「許してもらわなくても」は、全くもって天堂を神とは思っていないと示していることになる。そもそも、初対面の敵を神扱いする人が居るか賭けません?

御手洗に語られた天堂教のありがたい教え

 迷いがある時こそが
 人世をより善くするチャンスだ

 悩み惑うことは悪とされがちだが
 蓋をして誤魔化す事こそが
 堕落への第一歩

 自分の心を見つめ続けろ
 悪魔は目を逸らした隙に巣を作る

 迷いは人生を豊かにするが
 戦いには全く役に立たない

 

ブルー・テンパランス

 御手洗は、対戦相手を見て変顔を晒す。よりによっても何も、銀行側からしたら喜ばせたいのはVIPである。そりゃ、VIPに喧嘩を売った御手洗の百面相も楽しかろう。

 ラウンド無制限のゲーム、ブルー・テンパランス。高低差を利用して敵を倒すゲームだが、度し難いと言うフレーズを出したら、どちらかがミーティの立ち位置でどちらかがナナチの立ち位置になりそうだ。

 逃げ場のない部屋で、それぞれに異なる負荷。そして、気持ち悪さを増した御手洗。神の声が届いたかは謎だが、天堂にとって御手洗の情報は悪魔の囁きであるか賭けません?

 弱者は信じるものさえ選べないーー

 真経津が弱者かはとにかく、弱者は様々な自由も思考も制限された状態。ゲームで例えるなら、縛りプレイと言うやつだろうか。なお、朔班にとって、ダブハン爪痕は罰ゲーム。

 しかし、釈迦に説法とは言うが、真経津の「ニセモノの説法」発言は意図的なのだろうか? 説法は仏教のイメージがあるが、教会だけに神父行うのは説教のイメージがある。(もとい、筆者が卒業したプロテスタント系高校では、毎朝行われる礼拝で「説教の時間」が有った)
 そもそも、「土葬が良いなら」発言や「神父さんのコスプレ?」発言からして、真経津は「キリスト教の言う神」を信仰しているかを疑って掛かっている節がある。

 一人称が神と知られた後も、その程度では揺るがなかった天堂だった。しかし、御手洗の悪魔の囁きに惑わされて敗北する。これは、信じていたものを疑った罰だろうか。
 御手洗の発言など気にせず、確実な方を選んでいれば結果は違ったかも知れない。毒親と言うものは他責をしまくって生きているが、それを見て育った毒親育ちも解毒を始めるまではそちら側に居るように思える。そして、「堕ちることろまで堕ちるか」「自らの行動を顧みて軌道修正するか」どうかが、その後の人生を変える。

 毒親育ちに限らず、自分で考えて責任を持って行動すれば、他人を恨むこともない。自分で考えて起こした行動なら、失敗しても反省を次に活かすことが出来る。
 「他人の行動を操ることなんて常人には出来ない」と心得えておけば、自分で考えて決めたからこそ、失敗も糧になる。他責をして相手を動かすような人は、パワハラ上司かカスハラする人。そう考えても、他責は醜いものである。

 どうにも纏まりのない文章になって来たが、天堂が自分を信じたままだったなら、勝てた可能性はどれ位だったのだろうか? それが未だに気になるのである。

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