ジブリに出てくる女の子(1)
まずは、自己紹介がてら、この18年間の人生を語っていこうと思う。
が、しかし。どうも一つの記事には収まりそうにないので、『ジブリに出てくる女の子』と題して連載化していきたい。
まずは、中学校時代の話。
私は、特段裕福な家系に生まれたわけでもなく、特段頭が良かったわけでもなかったので、近所の公立の中学校に通った。なので学校内には何人も顔見知りの人がいたし、なんら困ったことはなかった。ただ一つ変わったことといえば、ある親友がいないことだった。彼女は、中学校受験をして、片道一時間以上かけて通学をした。私にとってそれは、大きな目標であり、勉強へのモチベーションとなった。当時の私は、高校での編入を目指して、勉強に励んだ。お陰で、学校の定期考査は毎回一位だったし、通知表の成績もすこぶるよかった。それは、思わぬところで私も導いてくれて、生徒会に立候補する自信にもなり、高校受験への大きな足掛かりにもなった。当時、私はどうして受験をしなかったのだろうと心の底から悔やんでいたが、今となっては公立の学校でよかったと思う。そこで、私の懐かしき思い出を二つ話していきたい。
余談だが、私の辞書に黒歴史という言葉はない。楽しかった思い出も、辛かった思い出も、恥ずかしかった思い出も、全てが私を形作ってくれた大切な思い出達だ。黒に染めてしまうのは勿体無い。
さて、一つ目は何と言っても部活だ。吹奏楽部でテナーサックスを担当していた。どうして吹奏楽に入部したのかは覚えていないが、何しろ、仲間に恵まれていた。恵まれすぎていた。多くの人間は、中学校の部活で初めて、上下関係や礼儀・マナーを学ぶと思う。私の部活ではそれが徹底されていた。先輩とすれ違うときには挨拶をする、先輩には敬語を使う、先輩が持っている荷物は後輩が持とうと努力する、部屋に入るときには靴を並べる。当初はそのルールにかなり手間取りもした。そのせいでトラブルも多かったと思う。他の部活を羨んだりもした。だが、今となっては大きな財産だ。
顧問の先生からの話でこのようなものがあった。
「麦は踏まれて強くなる。私が皆を踏みつけても、負けじと這い上がってこい。」
今でもこの言葉は、辛い状況にあるとき不思議と頭の中に浮かぶ。若き頃の青い日々に、自分を奮い立たせてくれた言葉は、何年経っても消えないものだと実感する。そして同時に想いを馳せるのは、あの頃を共に過ごした仲間達。夏コンに向けて一日練が続くときに頑張れたのは、あの楽しかった昼休みがあったからだろう。意味もない会話に大笑いして、ただ歯磨きをするだけでもずっと笑っていられた。今でも交際が続いている人や、もう何年も会えてない人もいる。またあの時のように笑い合えたらなと、そんな希望を持つことが、私の生きる糧になっているのかもしれない。
二つ目は、二年次に起きたマスク事件。もしこれを読んでくれている人に、当時の同級生がいるのならば、あれかと思わず笑みが溢れているのではないだろうか。伝説級に皆の脳裏にも焼き付いていることと思う。なにしろ、学級誌のようなものの思い出ランキングで、あの修学旅行を差し置いての第一位だったからだ。
私は、今まで十二回のクラス編成を経験してきた。その中でもこのクラスが一番好きだ。結束力が強くて、前向きで、優しくて、いい意味で馬鹿になれるクラス。そんなクラスになれたのは、担任のT先生のお陰だ。14歳というアイデンティティを形成する大事な時期の中でT先生に出会えたことを幸せに思う。T先生は、歳を重ねても青い人だった。今思えば、あんなに熱意を持って、学生に寄り添ってくれる先生はいないだろう。だからこそ起きたマスク事件。
「このマスク誰のですか?」この一言で始まった。その時限は、合唱コンクールに向けて一時間の練習ができる日で、皆があくせくしていた。そんな中でT先生の発した言葉に、誰も答えようとしない状況。悪夢のような時間が流れた。T先生はブチギレた。教室をでた。残されたのは私たちと一個のマスク。学級委員長が前に立ち、このマスクをどうするか話し合いになった。誰かが持って帰る。クラスの人数分に分けて持って帰る。記念に教室に飾る。結局マスクがどうなったのかは忘れたが、その話し合いの時間が私にはとても印象深く残っている。T先生はきっと、責任を押し付ける誰かがいるクラスが許せなかったのだと思う。そしてそれを察知したクラスの何人かは涙を流していた。学級委員長の女の子も泣いて訴えていた。たかがマスク、されどマスク。一個のマスクをどうするか、そんな議題は私たちの将来の役になんて立たない。しかし、あの一時間は、間違いなくクラスの団結力を高めてくれて、見事、合唱コンクールでは学年優秀賞を獲得することができた。私は、今この状況でそのような話し合いになったとき泣けるだろうか。T先生のように青い人でいられているのだろうか。自分に問いかけてみる。