読書の「巡り合わせ」

読書を趣味にしている方なら、読んでいる本の内容と自身の生活がシンクロするというか、「何かこれって、今読んでいる(あるいは、最近読んだ)本に出てきた気がする」といった「巡り合わせ」を感じた経験があると思う。

私は「趣味」と呼べるほど本を読んでいるわけではないが、そういった経験がある。

例えば、このnoteに投稿した『思い出せない』という記事は、本文の最後にこう付記した。

と、ここまでを2020年5月に書いて、公開しそびれたまま思い出さなくなっていた。
そうしたところ、2020年7月に上記で引用した本の著者である、いとうせいこう氏が『ど忘れ書道』(ミシマ社)を出した。
(略)
「思い出せない」という原稿に引用させていただいた本の著者自らが「思い出せない」本を出すという巡りあわせに、面識も無い著者に「公開すれば?」と背中を押してもらったような気が(勝手に)したのである。だから公開してみた。

これは「本つながり」であるが、それ以外でも、最近は読んでいる本と映画・芝居でこういった巡り合わせを感じることが多い。

映画『三島由紀夫VS東大全共闘 50年目の真実』(豊島圭介監督、2020年)を観に行って上映前に読んでいたパンフレットに載っていた内田樹氏の寄稿と、その帰りに読んだ宇野常寛著『遅いインターネット』で、吉本隆明の同じ言葉を引用していて、驚いたことがある。

自分の魂を清めることが世界を浄化するための最初の一歩であるとか、自分がここで勇気をふるって立ち上がることを止めたら世界はその倫理的価値を滅じるだろうとか、「ぼくがたふれたらひとつの直接性がたふれる もたれあうことをきらった反抗がたふれる」(吉本隆明)とか、そういうふうに個人の歴史に及ぼす影響力を過剰に意識することが「政治の季節」の特徴である。

(『三島由紀夫VS東大全共闘 50年目の真実』パンフレット、内田樹寄稿「政治の季節」) 

だが僕の知っている限りたったひとりだけ、この問題を、それも半世紀ほど前から考え続けてきた人物がいる。
 (略)彼の遺した言葉にこんなものがある。「もし"民主制"になんらかの価値があるとすれば、それは崇めなくてもよいからだ」(略)
ぼくがたおれたらひとつの直接性がたおれる」ーそして詩人でもあった彼は、こんな言葉も残している。彼は人間が人間である限り世界に素手で触れる世界に素手で触れることができるという幻想をどうしても求めてしまうことを前提に思考していたのだ。
(※太字、引用者)

(宇野常寛著『遅いインターネット』(幻冬舎、2020年。P128-P129)

内田のいう『個人の歴史に及ぼす影響力を過剰に意識すること』が、つまりは宇野のいう『人間が人間である限り世界に素手で触れる世界に素手で触れることができるという幻想』ということになろう。
違う書き手が各々の文脈から、同じ意味において吉本隆明を持ち出し、それを偶然同じ日に読むという「巡り合わせ」。
ちなみに、私が映画を観たのは2020年3月23日、『遅いインタネット』は同月26日に読了した。

また、最近私は、佐々木敦著『これは小説ではない』(新潮社、2020年)を読了したのだが、ちょうど「第五章 芝居は小説ではない」を読んでいた頃に、宮沢氷魚・大鶴佐助の二人芝居『ボクの穴、彼の穴。』(観劇日 2020年9月17日、@東京芸術劇場プレイハウス)を観た。
この芝居は、二人の俳優が「戦争中、砂漠で敵同士の兵士がそれぞれの穴から互いを攻撃している」という話で、物理的・視覚的に二人を隔てるものはないが、「二人は『違う穴に独りでいる』設定」になっている。
従って、二人は同じ舞台に立ちながら、互いに言葉を交わすことはない。
つまり「二人芝居でありながら、ダイアローグではなくモノローグで進行する」のである。
読んでいた佐々木の著書の「第五章」では、「芝居におけるモノローグ」についての考察もあり、芝居を観ている間、ずっと「ダイアローグとモノローグについて」考えていた。

ついでながら、先日(2020年10月9日、@新国立劇場 小劇場)観た『たむらさん』も、橋本淳と豊田エリーの「二人芝居」だが、50分の上演時間の前半(?)40分、延々と橋本のモノローグが続く。その間、豊田は観客に背を向け、ひたすら料理を作り続ける、という芝居で、これも「第五章」にあった「モノローグは誰に向けられているのか」ということに通じている。
橋本は確かに観客に向かってひたすらしゃべり続ける。しかし、実は背を向けて料理を作り続ける豊田に「聞かせている」ということも考えられる。
まぁ、これについては、読みかけの佐々木の別著書『小さな演劇の大きさについて』(Pヴァイン、2020年)を読了してから、改めて考えてみたいと思っている。

佐々木の『これは小説ではない』の、第二章は「映画は小説ではない」であるが、ここでドキュメンタリ映画についての考察が書かれている。
私は『これは小説ではない』を読了した日、川越スカラ座で『精神0』(相田和弘監督、2020年)を、佐々木が書いた相田監督の「観察映画」についての考察部を思い出しながら観ていた(2020年9月19日)。
相田監督の「観察映画」については、是枝裕和監督の『万引き家族』公開記念として日本映画専門チャンネルで放送された、是枝監督と相田監督の対談が面白かったので、それらと合わせ、何か書ければと思っている。

佐々木敦著『これは小説ではない』は、つまり、単純に興味があって読んでいた本が、偶然、何の関連性もなく(これも、単純に興味があって観ていただけの)芝居や映画の「補助資料」となったのである。

つい最近では、些細な事だが、出勤電車の中で増淵敏之著『伝説の「サロン」はいかにして生まれたかーコミュニティという「文化装置」』(イースト・プレス、2020年)の、

 ジャズ評論家の植草甚一が通っていたことでも有名な「DIG」が東口にできたのは、1961年。(略)「DIG」の姉妹店に当たる「DUG」が1967年にオープンする。

(「伝説の「サロン」はいかにして生まれたか」 P114)

という箇所を読んだ日(2020年10月7日)の帰り、ちょうど水曜日で「UPLINK 吉祥寺」のサービスデーだったので『ジャズ喫茶 ベイシー Swiftyの譚詩』(星野哲也監督、2020年)を観に行ったら、映画の中で「DIG」「DUG」をオープンさせた(現在でも「DUG」のマスターである)中平穂積氏が、「DUG」でインタビューに答えているシーンがあって驚いた、なんてこともあった。

他人からすれば「それが何?」ということでしかない、その個人的経験が読書の醍醐味だったりする。

最近では、「ビジネス本」や「自己啓発本」でいかに「効率よく」「自分を高めるか」といった、「知的好奇心による読書」ではなく「今すぐレベルアップするための読書」を煽る風潮があるように思う。
確かにそういった本の読み方も自分を成長させる方法の一つだろう。
でも、どんな本をどういう読み方をしても、本を読んだだけでは「わかりやすい効果」なんか得られない。

読書の醍醐味は、読んだ本と日常が、ふとしたきっかけで「巡り合う」、それに気付けることではないだろうか。そして、その巡り合いの中で、新たな知的好奇心が生まれてくることだと、私は思っている。

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