死なんとする人、待たれよ、しばし。「死んで楽になった人」は存在しない

 じっさい、死んで楽になる保証など、どこにもないのである。
 自殺する人は、死ねば楽になる、死んで楽になりたい、その一心で自殺するわけだが、死んで楽になる保証など、どこにもないのである。ちょっと考えればすぐわかるはずなのだが、とにかく生きているのが苦しいものだから、「生きているのが苦しい」の裏返しは、「死ねば楽になる」であると、短絡してしまうのであろう。
(太字、引用者)

 なるほど、死んだ人は生きなくてすむから、楽になったように、生きている我々には見える。しかし、死んだ人自身が本当に楽になっているのかどうか、じつは知れたものではない。そんなことは、我々にはわからない。(中略)。
「死んだ人自身」なんてものはない。死ぬということは自分が無になるということなのだと、こう考えることもできる。無になるということが、すなわち、楽になるということなのだと。
 しかし、無が楽であるとは、どういうことなのだろうか。無とは、文字通り無なのだから、そこには苦しいも楽しいもないはずである。(中略)
 死んで無になれば、生きていることの苦しみがなくなって楽になったと思っている自分もまた、ないはずだということである。楽になったと思っている自分がないのだから、楽になるということも、当然、ない。

 唯一確かに言えるのは、以下の恐るべき当たり前、すなわち、無なんてものは、無いから無である、このことだけである
 その意味で、自殺は逃げであるということは、まったく正しい。我々は、生きることからは逃げられても、無くならないということから逃げられるものではない。そのことをどこかで知っている我々は、それを指して、「後生が悪い」と、正しく言ってきたのである。死なんとする人、待たれよ、しばし
(太字、引用者)

これは2004年に出版された『41歳からの哲学』(新潮社)に書かれた一節です。著者は、哲学者の池田晶子さん。

私自身は「死」がどういうものであるのかまったくわからないので、そういう私が「わかりやすい道徳心」などを振りかざして「自殺はいけない」とか言っても、「上っ面だけの聞こえの良い言葉、ただの自己満足」としか思えないし、そんな言葉が自殺したいと思い詰めている人に響くなんて到底思えません。
だから、池田さんの著書を引用してみました。

せめて死ぬ前に一度くらいは、まともにものを考えてみていいのである。なるほど、すべてを無にしたい。しかし、無なんてものは、はたして存在するものであろうか。無は、存在するのであろうか。

「"死んで楽になった"と思う(無であるところの)死人は存在し得るか」といった哲学的問いを思考していると気がまぎれるかもしれません。でもきっと、「死にたい」と強く思い詰めている人は思考するだけの心の余裕がないことでしょう。
だけど、そういう人でも、哲学ではなく「一般的な事実」として、これだけは思い出してほしいのです。

この20世紀以降の「科学至上文明」下で科学がこれだけ進歩している現在においても、「"死ねば楽になる"と(科学的に)証明されていない」し、また、これまで何億人もの方が亡くなったにもかかわらず、「"死んで楽になった"と(科学的に)認められた人は一人もいない」のです。

死なんとする人、待たれよ、しばし。
「じっさい、死んで楽になる保証など、どこにもない」のです。


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