舞台『パンドラの鐘』(ネタバレ?)

舞台『パンドラの鐘』(野田秀樹作、杉原邦生演出。以下、作品自体を本作、今回の上演を今作と記す)でのクライマックスの壮大な"タネ明かし"の迫力に興奮し、"ネタバレ"と称してそれを書こうとしたのだが……その"タネ明かし"のスゴさを説明するのには、その前をちゃんと説明できなければいけない、と気づいて途方に暮れた。

何せ野田秀樹の戯曲では、"言葉遊び"を含めた過剰(ではあるが一切無駄の無い)なセリフに戸惑うのはもちろん、物語自体が複合的だから。

本作の舞台は野田の出身地である長崎。
長崎が舞台のプッチーニのオペラ『蝶々夫人』は、没落藩士令嬢の蝶々さんとアメリカ海軍士官ピンカートンとの恋愛の悲劇を描く(Wikipedia)。
本作には「ピンカートン夫人」なる人物が登場し、彼女が設立した財団は『わたくしのお兄様が蝶々夫人を死に追いやった罪滅ぼし』であると説明している。

本作を観ていると、物語が「天皇」に言及していることに気づく。

『紙の筒を遠眼鏡のようにのぞいている退位させられる「狂王」は明らかに大正天皇のイメージ』で、Wikipediaによると、昭和初期には『「大正天皇が帝国議会の開院式で勅書をくるくると丸め、遠眼鏡にして議員席を見渡した」とされる「遠眼鏡事件」』といった「大正天皇精神病者説」が大衆の間に流布していたとある。

「狂王」が大正天皇だとすると、後継の「ヒメじょ」は必然的に昭和天皇となる。
だから、現代パートで「大雪の東京で青年将校たちがクーデターを起こした」ことが告げられる「二・二六事件」が、過去パートでミズヲが統制派、「狂王」を担ぎ上げるヒイバアとハンニバルが皇道派と見立てられ、ヒイバアが「クーデターは失敗した」と叫ぶのである。

ヒメ女と「鐘」は、能・歌舞伎の『娘道成寺』がベースにある。
Wikipediaから「あらすじ」を要約すると、『清姫の化身だった大蛇に鐘を焼かれて長らく鐘がなかった道成寺に、ようやく鐘が奉納されることとなり、その供養が行われた。その時「花子」と名乗る清姫の化身が、舞を舞いながら鐘の中に飛び込む』。
それを如実に表しているのが初演の野田版で、過去パートで「鐘」が釣り上げられ停電になった後、現代パートに移った際、舞台上で目を閉じて動かないヒメ女が「鐘」に見立てられている(蜷川版及び今作でもその演出はない)。

今作は恐らく再再演になるのだろう。
初演は、1999年の蜷川版(ミズヲ・勝村政信、ヒメ女・大竹しのぶ。@シアターコクーン)・野田版(ミズヲ・堤真一、ヒメ女・天海祐希。@世田谷パブリックシアター)同時上演という「演劇的事件」。
再演は2021年、野田が芸術監督を務める東京芸術劇場のシアターイーストでの熊林弘高演出版(ミズヲ・金子大地、ヒメ女・門脇麦、野田は声の出演)。
そして2022年の今作は、23年前に蜷川版が初演されたシアターコクーンでの上演。

今回、劇場に入って、舞台奥の搬入用の扉がむき出しになった舞台美術を見るなり「蜷川リスペクト」を強く感じた。パンフレットによると、演出の杉原自身が蜷川フリークのようだ。
今作、過去の蓄積もあり、わかりやすく整理された演出になっていたように思う。
また、ミズヲ役に初舞台の成田凌、ヒメ女役に葵わかなという人気若手俳優の起用による客層にも配慮してか、ミズヲとヒメ女のラブロマンスがフィーチャーされているようにも思えた。

しかし、今般の世界情勢等を踏まえた上で、過去作以上に先の大戦に対する憤りを表現してもいた。

先に本作が「天皇」に言及していると書いたが、今作はさらに深いところまで行く。
その象徴が、最終盤の2人の女性のセリフだ。

まず、ヒメ女が自ら鐘に入る前にミズヲに言うセリフ。
『埋められるのが、滅びる前の日の王のさいごの仕事よ。(略)それができないものは、滅びる前の日に女王などと呼ばせてはいけない』

そして、ヒメ女がかつて入っていた鐘の前で、鐘をアメリカに持ち帰ると言うピンカートン夫人に抗議するオズに対して、「何も起こらないように鐘を守るだけ」だと説得する夫人の娘タマキ(前田敦子)のセリフ。
『第一、日本には「王」がいるわ。私たちだけは知ってるじゃない、ミズヲとヒメ女の物語。もしアメリカが「もうひとつの太陽」を爆発させようとしたって「王」が守ってくれる。滅びようとする日の、あのヒメ女のように。ヒメ女がこの土地を救ったように、「王」ならば、必ずその地が滅びる前に、きっと我が身を埋めるでしょう』

両方とも初演からあったセリフだが、「王家の宿命さだめ」として受け入れている感じで、殊更この2つを強調してはいない。
今作では、葵わかなが凛とした姿勢で力強く「覚悟」を持って「宣言」する演出となっており、それを受け取ったタマキがさらに未来の「王」に希望を託すことが明確になっている。
さて、ヒメ女とタマキに託された希望を「未来」に生きる我々はどう捉えれるか、我々から「未来」へ託す希望はあるのか、舞台上から問われている。

その問いかけは、ヒメ女を失ったミズヲが舞台(土地)に耳を付けるラストシーンへ繋がる。
舞台奥の搬入用の大きな扉が開き、渋谷の裏通りが現出する。
蜷川幸雄が好んで用いた、シアターコクーン版「屋台崩し」。その扉は通称「蜷川ハッチ」と呼ばれる(初演蜷川版はこの演出ではない)。
ミズヲが聞いているのは、かつてこの劇場の芸術監督だった時代の蜷川の作品の音であり、「王」は埋まらず「鐘」は落とされたにも拘わらず80年近く平和ボケで近隣で起こっている大きな紛争に関しても「空気のように見ないふりをしている」、今現在の日本の音だ。
ミズヲはそこに「希望の音」を聞いただろうか?

(参考:扇田昭彦氏による本作初演の劇評。「ダンスマガジン」2000年3月号。本稿、私の拙い知識だけで当然書けるわけありません)

メモ

舞台『パンドラの鐘』
2022年6月18日マチネ。@シアターコクーン

本作、長崎でミズヲが”愛する"ヒメ女の頭上に「鐘」を落とす。
一方、広島では比治山ひじやまの上に立つ”愛する"髪百合子の頭上に『エノラ・ゲイ』に乗った犬子恨一郎が「鐘」を落としていた(つかこうへい作『広島に原爆を落とす日』)。

今作と同時期、近くにあるPARCO劇場にて生田斗真主演の舞台『てなもんや三文オペラ』(鄭義信作・演出)が上演されていた。
終戦後の大阪が舞台のこの作品でも、その責任が問われる。
数々の悪事を働いた(ということにされた)罪により処刑されることとなった生田演じるマックは、その罪ではなく、自分は「戦争中に生きるためにたった一人の敵兵を殺した」罪により裁かれ、その罪によって死ぬのだと言う。
そしてその後、『でも「南の島で14万人の同胞を殺したヤツ」は裁かれていないのではないか』、といったことを聴衆(及び観客)に問いかける。
どう受け取るかは、観客の自由だ。

私は、初演の蜷川版、2021年、今作を観ている。
最初が勝村政信のミズヲだったのだが、良かったのか悪かったのか……
最終盤で自分の名前の由来を思い出すシーン、その迫力で心を鷲づかみにされて今に至るのだから良かったのだが、でも、野田版含めそれ以外では意外とサラッとしているので、毎度そのシーンで期待しすぎて肩透かしにあったような気になってしまう点では悪かったのかなぁ、とも思う。


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