息子の受験を初めて経験し
子供の成長を見守る母として
口を出すところと出してはいけないところと
ものすごく感じる今日この頃。

私は大学受験に関して今思えばもっと相談してもよかったのではと思うけれど、自分の決めたことは報告したものの、相談と言う形をとった記憶がない

不思議なことに。
まったく息子が同じである。

親の立場になって思うこと。
おいおい。お金のかかること。ちょっとくらい相談してよw

浪人するのかどこでも良いから入るのかも決めるのは俺だ

ええ。そうよねw

勝手にしなさい。と言い放ったら
自分で稼ぎながら浪人でも大学に行くんだと。
そろそろバイトを始める準備を始めている。

そもそももともと全て自分で決断をしてきている息子に
確かに今になって相談しろと言っても今更で。
決めたことの報告と協力要請がくるのが自然な流れ。

時代が急激に変わってきていることを肌で感じる親世代。
でも自分が変われるかどうか
ついていけるかどうかを試されている気がする。

コーヒーやチョコレート・激辛カレーなど刺激に心地よさを感じると
病みつきになる。

不安や頑張った後の充実感もまた同じ刺激だ。
努力して手に入れたことは次もまたドパミンの放出を求めることとなり
ずっと刺激を求める。

私。学生時代に自分の劣等感を誤魔化すために
ひたすら努力で超えてきた。

達成するとその刺激の快感を覚えて次もそれがくると思っている。

でもかなりの大人になって感じたこと。

あの刺激は年齢とともにあの刺激を感じるための努力はなかなかできなくなる。

やりたい気持ちがあれば頑張れるんです。努力も努力じゃなくなる。

それはわかる。
でも本当にやりたいことなんてそんなにたくさんあるわけでもなく
年齢と主にお金が欲しいだけでは動けなくなる。

その先に何がしたいのか。
どうなりたいのかがわからなくなるくらいなんとなく過ごしてきた気がする。

それで生きて来られた時代もあった。

勢いで来てしまった私には積み上がってるものが根性だったのかもしれない。
でもその根性は目先の目標をただがむしゃらに達成させるために
自分を鼓舞してきた記憶がある。

今。私は何がしたいの。
どうなりたいの。
どうなりたくないの。

年齢なんて関係ない。なんて思わない。

関係ないけど積み上がってない大人は関係あるんだよ。
ここをどう払拭してどう前に進むのか。

ずっと自分のコンプレックスと向き合ってきた。

大学出ているのに驚かれるけど。
根底に積み上がってるものが感じられない自分がいる。

でも積み上がってないのに手に入れてきたことだってたくさんある

それを積み上げてきてるんだけどそこには自信が伴ってない。

でも息子を見て。
そして他の同世代の人たちを見て
ここからが老後のんびり過ごせるのか
若者に譲れない老人になるのか。

ここおからでも積み上げて
しっかり身を引くことのできる老人になりたい。

裏方として若者の役に立てる老人になりたい。

私と同じように年齢を重ねたのに自分が確立されてないと思う人も多いと思う。

これが自己肯定感ということなのか別の表現になるのかは
正直私にはわからない。

でもこう言った人が多いのはとても感じる。

ここを脱出するために
私はこう言った人たちの役に立てる立場になりたいと思うし
カッコつけて見栄えだけの老人を後何年も過ごすのは逆に怖いと思うし。

思っている以上に自分が何ができどんな役に立てる人なのか
そんなこと言ってられないと言うこともあるかもしれないけれど

ここから先どんな人生を送るのか。
今から勝負したって良いって思わないとやってられない。

本当の豊かな人生を手に入れる。と決めた。

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