卑怯者

”問題はむしろ広汎に存在する反ユダヤ主義を見せかけだけ否定することに、ユダヤ人ブルジョワジーが自己欺瞞のためのあらゆる舞台装置を用いて現実から逃避していることにあった。こうした逃避は、カフカやそのほかのひとびとにとってユダヤ人、いわゆる東方ユダヤ人(東ヨーロッパのユダヤ人)からのしばしば敵意に満ちた、そして常に傲慢な分離を意味していたひとびとは、より正しい知識をもっている場合でもなお反ユダヤ主義を東方ユダヤ人のせいにしていたからである。”
(「阿部斉訳、ハンナ・アーレント著『暗い時代の人々』河出書房新社、一九七二年、二三〇頁」のものを、細見和之(2005)が改変した引用)

細見(2005)は、上の引用を
”ユダヤ系知識人としてのカフカ、クラウス、ベンヤミンらは、ユダヤ人中産階級、ブルジョア階級の、「ユダヤ人であること」をめぐる中途半端なご都合主義──「同化」をめざしながらも「ユダヤ人性」を保持し、一方「同化」とは縁遠い貧しい「東方ユダヤ人」は侮蔑する──に、激しい苛立ちを禁じ得なかったのだ。 ”(二三二頁)

と説明する。

 片方の極には、反ユダヤ主義(Anti-semitism)があり、もう片方のその極にはユダヤ人的ユダヤ人がいる。カフカやベンヤミンが怒りを覚えた、ブルジョア階級のユダヤ人は、倒錯的に、その真ん中に存在した。
 彼らは、ユダヤ人性ともいうべきか、ユダヤ教を中心とした「伝統」を守り、従おうとしながらも、居住する社会に同化していく。そして、「同化があまりにも進まない」東ヨーロッパからのユダヤ人を蔑ます。そこが自己欺瞞的なのだ。
 矛盾した生き方と、矛盾した目線、矛盾した基準。それらは生きていく上で、仕方なく抱いてしまうものかも知れない。例えば、ぼくはジェンダー規範によって人を判断することに辟易しながらも、自分が嫌う行動を、そっくり其の儘行なっている無意識的な自分を発見する。
 カフカや、ベンヤミンは、その当事者であった上、より清廉潔白に、自己を貫いたのかも知れない。そんな素晴らしいことを、ぼくができるとは到底思えない。ぼくは矛盾しながら生きていき、その矛盾さを常に事後的に悟りながらいきていくしか方法がないだろう。

 そんなぼくが最低限できることは、ぼくの思考と判断の基準は常にすでに矛盾しているだろうという前提、そして他者を判断、あるいは評価することは、常にすでに間違っているという前提、その二つの前提と付き合うしかないように思う。そのことは、とても体力のいることだろう。だが、ぼくは誤った判断と評価により育ってきて、それをそっくり其の儘人々に当てて生きてきた。そんなことは、繰り返したくない。
 ぼくは、カフカやベンヤミンが嫌うような人であっても、嫌われたくはない。嫌われそうなところは、極力隠し、希望の少なき改善を試みながら生きる方を選びたい。

参考文献
・細見和之「アーレントが読んだカフカ」『言葉と記憶』岩波書店、2005年
 

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