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僕と人との距離

 ドイツの社会学者テンニース(Tönnies)は、共同生活を二つに区別する。いわゆる一次的絆で結ばれており、「信頼に満ちた親密な水入らずの共同生活」(Tönnies [1887] 1935=1957[上]:35)をゲマインシャフトとし、それとは異なり、都市空間などにおいてそれぞれ個人主義的な個人が、常に他人との緊張関係に置かれている共同生活の様態をゲゼルシャフトと呼んだ。
 テンニースは、ゲゼルシャフトのあり方に、悲観的であった。

 しかし、ジンメル(G. Simmel)は、社会のあり方は個々人の間の相互作用であるとし、テンニースの述べる都市的なゲゼルシャフトは、決して糾弾されるべきあり方なのではなく、ゲマインシャフトと同じく、ただもう一つの形の社会であり、ゲゼルシャフトにおける緊張や無関心は都市において現れた新たな社会において、必須不可欠なものであるとする。
 E. Goffmanは、その必要な無関心を「儀礼的無関心」と名付けた。電車に乗る際、我々は隣にいる人の存在を知るが、自分がかれの存在を知ったことを、挨拶をするなどを通してあえて表現したりしない。少しちらつく以上のことをされた時、気分を悪くした人はよくいるだろう。

 だが、面白いことは、この儀礼的無関心は、百パーセントの完全な無関心を意味するのではない。完全な無関心とは、無視であり、ゴフマンはそれを「離脱」と言う形で説明する。離脱をしているものは、電話をするもの、大きな音で歌を聴いているもの、化粧を治すもの、あるいはいちゃつくカップルなどであり、彼らは彼らの世界に更けており、他人の存在を忘れているか、忘れているふりをしているのである。それが故に、その光景を見ている他人は気分を悪くすると言うのだ。結局は、人々は無関心を欲しがりながらも、関心をも欲しがっているとの説明だ。

 アメリカの人類学者Edward Hallは、人間が空間を利用している方法を「プロクセミクス」と名ずけ、四つに区分した。密接距離、個体距離、社会距離そして公衆距離の四つは、各区分はそれぞれ異なる範囲を持ち、その範囲に入られるものはある程度決まっている。
 例えば、密接距離の場合、約45cmいないの範囲とされ、その中には親子や夫婦、恋人などの関係にいる人しか入れないのである。

 電車の中における他人としての人々が社会的距離か、公衆距離かどちらに置かれているのかは知らないが、一席以上せきを取っている人をみると気分を悪くするし、降りもしないのにドアの前でうろついていたり、携帯を見ながらゆっくり降りる人を見るとあまり気分が良くない。個々の距離における客体には、ある程度期待される行動様式があるのだろう。その行動様式が損なわれたため気分が悪くなるのだ。
 だが、その行動様式は、それを持つ主体の嗜好の問題であり、全ての人間は自分なりの価値観を持ち、その価値観によって合理的な選択をしている。その選択を判断する絶対的な基準はないのだ、と自分に言い聞かせながら感情的になろうとする自分を抑える。喧嘩とかをしていないのを見れば、そこはいつもうまくいっているようだ。

 社会的な距離ではなく、ある人間の内面の話をしてみたい。以上のプロクセミクスを物理的な距離ではなく、心の距離を基準として親密距離と非親密距離に再定義するとしたら、親密距離にいるものと非親密距離にいるものにも、各々が属する距離に沿ったある行動様式が期待される。
 自分のお願いを聞いてくれる、あるいは電車の中ではカバンを前に持つなど、場面における人々の行動様式はあらかじめ与えられているのだ。その心の距離の基準を持つ人間によって。
 親密距離も、非親密距離もさらに細かく区分されれるだろう。最後にあるのは、各々の人間かもしれないし、さらにはその人間も時間、空間、場面などの条件により異なる行動様式が期待されるかもしれない。

 僕の親密距離における人々への僕の視線は厳しい気がする。H. Garfinkelの下宿人実験は、自分がまるで下宿人になったかのような振る舞いと、言葉遣いを自分の家でしてみるという実験だった。ひどく丁寧になってしまった子供の行動に、家族は当惑したり、怒ったり、ショックを受けた。
 親密距離に置かれたものが、期待される行動を取らなかったことが、当惑と憤怒と驚きを招いたのだ。
 僕も親密距離に勝手に配置された人々にとって、僕と親密であることを求め、確認したがる。さらには僕との親密度が他人とのそれよりも高いことを求める場合も多々あるように思える。彼女とか、その役割を持つ人間にはさらなる行動が期待されるだろう。

 僕は、僕が各々の人に求めるなんらかの行動様式を、各々の人ごとに規定し守り抜こうと常に努力をしているように思われる。他の人もそうなのだろうか。
 僕はそもそも親密距離に人をあまり入れたがらないのかもしれない。しかし、入ってきた、いや正確には入れた人に対しては、厳しい基準を付与し、それを求める。それと同時に、儀礼的無関心をもある程度は欲しがる。矛盾でしかない。

 それが万能だと思うわけではないが、僕は基本的な社会のあり方として、ゲマインシャフトの方が好ましいように思う。
 そこには、一次的で親密な関心を欲しがる僕がいるだろう。しかし同時に、ゲゼルシャフトに慣れきった僕もいる。僕は、どこまで儀礼的無関心を振舞うべきなのだろうか。また、僕はどこまでの儀礼的無関心を求めており、どこまでが正しい範囲の儀礼的無関心となりうるのか。さらに、親密関係における人に親密な関係を要求することの適当な程度とはどれくらいだろうか。そもそも要求をしてもいいのだろうか。
 死ぬまでその答えを得られるような気がしない。

参考文献
 ● 長谷川ら『社会学』有斐閣、2007年 

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