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思いやりということ

 小学生(3年生か4年生くらいだったと思う)の通知表に担任から「思いやりがない」と書かれたことがある。正直自分にはあまりピンと来なかったが、母親からは「ほら!通知表にこんなこと書かれて!やっぱりアンタは思いやりがないんだ」と言われた。学校の先生が言って、母親が言うんだからきっと間違いないんだろう。どうやら自分には「思いやり」がないらしく、そしてそれはとてもまずいことらしい。それからはことあるごとに母親に「あんたには思いやりの心がないから人を思いやりなさい」と言われた。自分に思いやりというものが欠如していることまでは理解できるが「人を思いやれ」と言われてもどうすればよいのかまったくわからない。だって「ない」って言われてるのに。わかるわけがないと今なら開き直ることもできるが、当時は結構自分なりに考えたものだ。でもやっぱりわからずじまいで、「この子は思いやりがない」と言われ続けた。
 親戚や周囲の大人に「この子、通知表に『思いやりがない』なんて書かれちゃったのよ」と母親が言う。それを聞いた周囲の大人はあらあらという表情をする。いくら勉強ができても、思いやりがないんじゃダメよねぇ。でも「思いやり」がなにかは誰も教えてくれなかった。自分で言うのもなんだが、僕はそこそこ勉強ができてそこそこいい大学に入ったのだが、それでもやはり「いくら頭がよくても、思いやりがないのはダメよね」と言われ続けた。でも逆のことを言われている人を見たことがない。「いくら思いやりがあっても頭が悪いんじゃダメよねぇ」と言われている人だ。つまり、思いやりは勉強が出来るとか頭がいいとかよりずっと大切なことなんだろう。でも僕にはそれがない。
 僕には思いやりがないので、あまり人前に出てはいけない、人と交流してはいけないのだと思っていた(今もちょっと思っている)。僕には思いやりがないので、人に不愉快な思いをさせる。それでも小中高、一緒に遊ぶ友達はそれなりにいた。部活も普通にやってたので、まったく孤独というわけでもない。でも、小中高時代の友達で今現在も続いている人は皆無だ。なんとなく、自分から声を掛けることはためらわれる。そして今や大学時代の友人たちもなんとなく疎遠になりつつある。
 思いやりがないならないなりに、相手がなにを望んでいるのかを想像してそれで隙間を埋めるということもしてみる。でも、とどのつまり、相手がなにを考えているかなどわからないのであり、自分勝手に想像して、もし外れていたらそれはもうただの自己満足ではないのか。自己満足で済めばよいが、相手をなにか不愉快な気分にさせてしまったらどうするのか。それはやっぱり思いやりの欠如ではないのか。ならもう最初からなにもしない方がよいのではないか。
 他人から「お前にはない」と言われ続けて、でも世の大多数の人はちゃんと持っていて、そのくせ誰も教えてくれなくて、生きていく上で大切なもの。僕にとっては大いなる矛盾で、とても邪魔なものだ。でもたぶん、思いやりがあって真っ当な人たちからしたら、僕のような人間こそ邪魔なのだろうと思うのだ。

 そんな思いやりがない僕でも驚くべきことに結婚して子供もできたのだが、やはりと言うべきか離婚した。

 離婚して何年か経った頃、小6になる長男が学校で級友とうまくいっておらず、担任からそのことを言われたと元妻から相談があった。本人も気にしているようなので、話を聞いてやってほしい、と。そこで長男に会って話を聞いた。長男は、学校では勉強のできる方らしく、そしてクラスでは、算数や国語の課題のときに、先にできた生徒が、まだの生徒を教えるというスタイルが採られているのだそうだ。そんなの教師が教えろよ職務怠慢じゃないかと思ったがそれはともかく、長男としては先生に言われたからしかたなく課題の遅い級友を教えていたところ、その教え方が気にくわなかったらしく級友たちから総スカンをくらったのだそうだ。それをさも長男に問題があるかのように母親(=元妻)に言ってくる馬鹿教師に腹が立った(でも、小学校の教師が全員馬鹿なのは、僕が小学生のときには気づいていたのでこれはもう諦めるしかない)が、担任から言われたことをそのまま僕のところに持ってきた元妻にも怒りが湧いた。僕は長男に言った。周囲の大人からいろいろ言われたお前が気の毒だと思う。お前は1ミリも間違っちゃいない。生徒に生徒を教えさせる馬鹿教師が悪いのであって、そのスタイルを通したいのなら指導方法も指導すべきなのであり、それをしないのは職務怠慢もしくは馬鹿だ。しかしながら、その馬鹿教師に面と向かって馬鹿と言い、勉強のできない級友に向かって馬鹿というのは得策ではないことが賢いお前には分かるだろう。幸いあと半年ほどでお前の小学校生活は終わる。だからそれまでの間、馬鹿な教師と馬鹿な級友たちを徹底的に見下し、馬鹿だから可哀想にと思ってニコニコ接してあげるのだ。こういった人間とまともに付き合う必要はないのだ。中学校に進学すれば新しい出会いもあるだろうし、中学受験の準備をしているお前はそれに期待してもよいのだ。 
 おそらくだが、長男も「思いやりの有無」を指摘されるなど、そういったことに直面したのだろうと想像する。僕の場合は、両親も「お前には思いやりがない」と指弾するだけでなんの役にも立たなかった。僕は僕の両親と同じ轍を踏むのがどうしても嫌だったので、思いやりがなんなのかを教える代わりに(だって思いやりがなんなのかは僕にも分からないから)、思いやりなどなくてもよいと言い、現実的な対応をひとつアドバイスした。長男はうんうんとうなずいて聞いてくれた。
 その後長男は希望の中学校に進学し、すくなくとも級友には恵まれているらしく楽しく過ごしているそうで、むしろ成績は下位とのことだ。まぁ勉強などはしたくなったときにすればよいのであって、毎日楽しく過ごせるかどうかの方が余程重要だと思う。

 ここ数年は一人で気楽に生きており、こういったことを思い出すこともなかったのだが、とても大切な人から「優しさや思いやりに必要な想像力が欠如している」と指摘され、澱のように沈んでいた感情がかきまぜられて舞い上がって、自分の中でどうしようもなく収拾がつかなくなったので、とりあえず思ったことを文章にして叩きつけてみる。とくに結論めいたものはない。ある種の諦念はあっても、不思議と悲しみはない。ただまぁ「ああまたか」とは思っている。

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