見出し画像

『アナスタシア』がヒットしていれば「アナ雪」は10年早く生まれていた!?

1997年公開の20世紀FOXによるミュージカルアニメーション『アナスタシア』
タイトルは知っていたけど、きちんと観たことがなくて軽い気持ちで観たらこれがいろんな意味で面白かった。

あらすじ

栄華を誇ったロマノフ王朝の生き残りであるアナスタシア(=アーニャ)は、邪悪な魔法使いラスプーチンの魔の手から逃れる途中、祖母である皇太后と離別してしまいその際の事故により記憶を失う。
10年後、孤児院で育ったアーニャは自身の出自の唯一の手掛かり=ペンダントに刻まれた「パリで会いましょう」という文字を頼りにパリへ旅立つ。同じころ、アナスタシアを見つけ出した者にはパリにいる皇太后から褒美を得られるというニュースが世界中に広まっていた。
その褒美を得るため、2人の男が街中の女性の中からそれらしい偽物を見繕ってパリへ向かおうと企てていた…。

ドイツに住むアンナ・アンダーソンが、殺害されたはずのロシア皇帝ニコライ2世の末娘アナスタシア皇女なのではないか、という「アナスタシア伝説」を元にした『追想』 (1956年)をミュージカルアニメーションでリメイクした作品である。

「ピグマリオン」類型の物語としての『アナスタシア』

本作のプロットを簡略化して抜き出すと「男性が、(若く身分の低い)女性を男性の思い通りに変身させ、それにより男性が利益を得る」というもので、それだけ見ると本作はギリシア神話『ピグマリオン』に範をとる物語類型に属します。

ピグマリオン(=ピュグマリオーン)
現実の女性に失望していたピュグマリオーンは、あるとき自ら理想の女性・ガラテアを彫刻した。その像を見ているうちにガラテアが服を着ていないことを恥ずかしいと思い始め、服を彫り入れる。そのうち彼は自らの彫刻に恋をするようになる。さらに彼は食事を用意したり話しかけたりするようになり、それが人間になることを願った。その彫像から離れないようになり次第に衰弱していく姿を見かねたアプロディーテーがその願いを容れて彫像に生命を与え、ピュグマリオーンはそれを妻に迎えた。

ピュグマリオーン|Wikipedia

『マイ・フェア・レディ』や『プリティ・ウーマン』がその代表例ですが、それは当時としては美しい夢物語でしたが、ジェンダー意識が成熟した今日では「男性(社会)」による「性規範」の押しつけ、さらには「身分差別/性差別」甚だしく、また「結局女性が貧しい暮らしを打破するには金持ちに“嫁ぐ”しかない、という結末しか用意できない」などの点で批判を受ける種類の物語です。

本作もその例に漏れず、序盤は孤児院で育ったため「貧しく」「粗野」で「作法を知らない」アーニャでしたが、中盤に彼女を利用しようとする男達(ディミトリとウラジミール)により「王室の作法」を叩きこまれ「華麗な貴婦人」に変身します。

しかし本作が上述の作品群と一味違うのは、主人公アーニャが本当にアナスタシア皇女であるという設定の為、その「貴婦人の作法」や「家系図」を覚えていく過程が、そのまま「失った過去」や「家族の思い出」を取り戻していく=アイデンティティーを取り戻す過程となり、さながら「貴種流離譚」の様相を呈していくのです。

貴種流離譚
若い神や英雄が他郷をさまよいながら試練を克服した結果、尊い存在となるとする説話の一類型

貴種流離譚|Wikipedia

つまり本作は『ピグマリオン』類型の物語構造を利用してはいるものの、むしろ『隠し砦の三悪人』や、それに範をとった『スター・ウォーズ』に近い物語であると言えます。しかもそうなることによって、上述の『マイ・フェア・レディ』や『プリティ・ウーマン』に見受けられる、「礼儀や作法を知らず」、「知性のない女性」の「間抜けさを楽しむ」という構図が、本作では逆転しているのです。

中盤、ディミトリらによってアーニャが王家の家系図を覚えさせられるシーンでは、アーニャは彼らが教えていない「思い出」を語り出し、「そんなことは教えてないぞ!?」と彼らが困惑して終わります。元々王族の人間だったアーニャに「礼儀や作法を教える」ということは、まさに「釈迦に説法」。アーニャの出自は冒頭に描かれ観客も知っていることなので、本当の王族相手に王家の作法を教え、皇女の振りをさせようとする男2人の姿は、真実を知っている観客の目からは酷く間抜けで笑えるものに見える「すれ違いコメディ」となっているのです。

ディズニー低迷期に描かれた「プリンセス」

本作は1997年に20世紀FOXによって製作/公開されたということは冒頭に書きましたが、その当時アメリカアニメーションの王様・ディズニーはどうしていたかというと、1991年の『美女と野獣』の大ヒット以降、これといったヒット作を作れず、明らかに「低迷期」を迎えていました(勿論あの頃の作品で、個人的に好きな作品はたくさんあるのですが)。
それは、PIXARアニメーションを率いてきたジョン・ラセターがクリエイティブ顧問に就任することで始まる「第二次ディズニー・ルネッサンス」というべき流れを作る2008年の『ボルト』まで続きます。
その後『プリンセスと魔法のキス』(2009年)で再び「プリンセス」を新たな価値観を元に製作し、その「既存のプリンセス像のアップデート」を推し進めた『塔の上のラプンツェル』(2010年)を経て、「ハッピーエンド=結婚」さえも乗り越えた『アナと雪の女王』(2013年)へと繋がっていきます。

90年代、そんな足踏みをしていたディズニーをしり目に「第二次ディズニー・ルネッサンス」を10年先取る形で本作『アナスタシア』は、ヒロインのアクション的活躍がふんだんで、ラスボスを自らの手で倒すという「既存のプリンセス像」を打破し、「結婚」というエンディングを迎えはするものの、その相手が「王子様ではない」という展開を1997年の時点で描いているというのは、プリンセスアニメ史を語る上で決して無視できない作品なのではないかと思うのです。

アメリカ産手書きアニメーションの習熟期

物語構造をこれまで語ってきましたが、単純に「手書きアニメーション」としての出来もため息が出るほど美しいんです。本作は何度も述べている様に1997年にアメリカで製作された手書きによるアニメーションなのですが、これが何を意味するかというと、全編3DCGによる世界初の長編アニメ『トイ・ストーリー』が公開されたのが1995年。その後、PIXARの目覚ましい活躍を受け、世界的にアニメーションの潮流は3DCG化の一途を辿ります。なので90年代とは手書きアニメーションにとっても世紀末。それは手書きアニメの「終焉」を意味すると同時に「習熟」も意味します。その証拠に本作のアニメーションは極まった技術の美しさを体現していて、特に冒頭や後半の集団ダンスミュージカルシーンは圧巻です。

また色の塗り方、特に彩度がやや高めの影の塗り方がどことなく今敏のアニメに通じるように見えて、世界的な90年代頃のアニメの(文字通り)カラーが楽しめて、そこも見所です。(集団ダンスシーンでの常軌を逸した高揚感、張り付けたような笑顔の無数の人々がピッタリ揃って踊り狂っている感じとか、今敏感が強いw)

まとめ

本作がそのまま現在の最先端の価値観に通用しているとまでは言いませんし、ましてや本作の持っている物語構造が面白いアプローチだからといって「ピグマリオン類型の物語も捨てたものじゃない」と言いたいわけではありません。問題を孕む物語構造を、ある種「浄化」するような形で価値観を見直すことが果たして「正しい」ことなのかも分かりません。
ですが、もし1997年の時点で本作が大成功し、それを受け20世紀FOXがその後「プリンセス」を描くことを真摯に追求していたら、もしかしたらディズニーよりもずっと早く「アナ雪」に相当する作品が生まれていたのではないか…などど妄想してしまいます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?