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『モアナと伝説の海』挑戦の心境と伝統の打ち破り方

僕がディズニーで一番好きな作品は『モアナと伝説の海』です。

その素晴らしさのわりに日本ではさほどヒットしなかった印象ですが、実際どうなんでしょう。直前の『ズートピア』や『ベイマックス』、そして何より『アナと雪の女王』という大ヒット作品の影に隠れてしまった印象があります。そんなことないのに!素晴らしいのに!!

あらすじ

豊かな自然に恵まれた南の楽園、モトゥヌイ。タラおばあちゃんが子供たちにある伝説を語り聞かせていた。「命の女神テ・フィティの<心>には、命を創り出す偉大な力が宿っていた。その<心>を半神半人のマウイが盗んだとき、暗黒の闇が生まれた。だが、闇がすべてを覆いつくす前にサンゴ礁を超えて旅する者がテ・フィティの<心>を返し、私らを救ってくれる」と―。
そんな伝説を聞いて育った少女モアナは、幼いころに不思議な体験をしていた。まるで海が生き物のようにモアナに触れ、何かを伝えようとしたのだ。だが、モトゥヌイには島を取り囲むサンゴ礁の外には出てはいけないという掟があり、航海は禁じられていた。掟を守る村長のトゥイは、「大海原に飛び出して、その先に何があるのか見てみたい」という気持ちを募らせる娘のモアナに、「海は危険だ。お前の幸せはここにある」と言い聞かせていた。
ある日、モトゥヌイに不穏な出来事が起こり始める。ココナッツの木が病気にかかり、魚も捕れなくなったのだ。それらは全て、半神半人のマウイが盗んだテ・フィティの<心>によって生まれた闇が、今にもモトゥヌイを飲み込もうとしているからだった…伝説は本当だったのだ。
「自分の心の声に従うように」―タラおばあちゃんの最期の言葉を胸に、自分の運命を知ったモアナは大海原へと旅立つ。テ・フィティに<心>を返すために、愛する島と皆を救うために―。

作品情報|モアナと伝説の海|ディズニー公式

怖がりの子豚とおバカなニワトリ

多くの作品で、しばしば主人公は「動物の相棒(サイドキック)」と行動を共にします。その多くは主人公の心の声を代弁する存在として登場します。時に主人公の独り言の聞き役になったり、主人公は強がっているのに相棒は脇でブルブル震えていたり…。今作でもご多分に漏れず「動物の相棒」は登場するのですが、それが2匹も出てきます。子豚のプアニワトリのヘイヘイです。プアは八の字眉の怖がり屋で、ヘイヘイはなんていうか…おバカです。

序盤、島の掟を破り軽い気持ちで海に出たモアナとプアは、客観的に見たら大したことのない小波にボートを転覆されてしまい、水深数メートルの浅瀬でサンゴに足を取られ、あわや溺れかけます。息も絶え絶えに浜へ打ち上げられたモアナとプア。プアはボートのオールに触れただけで飛び上がらんばかりに怖がります。そんなことがあってもモアナは「心の声」に従い、そしておばあちゃんの言葉に背中を押され、後日再び海へと漕ぎ出すのですが、その際モアナは、プアを連れて行きません。

どうにか波を超え島の海域を抜けたモアナは、なんとボートに紛れ込んでいたヘイヘイを発見します。島でのヘイヘイは、エサと間違えて地面に落ちてる石ころをついばみ続けるほどのおバカです。ボートの上でも、足元を良く見ないで何度も何度も海に転落しそうになります。冒険に出たモアナは、なぜ怖がりのプアは連れていかないのに、おバカなヘイヘイとは行動を共にしなければならないのでしょうか。

それは前述の通り、主人公と行動を共にする「動物の相棒(達)」は主人公の心の声を代弁する存在、ひいてはモアナ自身を象徴する存在だからです。

プアはモアナにとって、故郷を離れ海へと旅立つことへの、または海そのものへの「恐怖心」を象徴する存在であり、ヘイヘイは生まれてから一度も航海なんてしたことのない、海に関して「無知」なモアナを象徴しています。つまりモアナは、「恐怖心」と訣別して大海へと飛び出し、「無知」と共に海原を漕ぎ出すのです。

セリフでは一切の説明もなく描かれる、なんて美しいキャラクター描写でしょうか。時として僕たちは、進学や就職、その他今までとは違う環境へと足を踏み出さなければいけない状況を目の前にして、当然「恐怖」し、それを振り払ったところで、あらゆることを「知らない」自分に、不甲斐なさや失望すら抱いてしまうこともあります。本作ではその過程を、勇敢で立派な歌や音楽と、またはチャーミングなコメディで、肯定してくれているように思うのです。

この動物を印象的に配置したキャラクター描写ですが、製作者のインタビューによると今作が影響を受けた作品の1つに『千と千尋の神隠し』があるそうです。『千と千尋』に関する説明は省きますが、その中にも主人公が動物たちと行動を共にし、たどり着いた先でその動物を置いてくる描写があります。ハエ(に変えられたカラス)と、ねずみ(に変えられた赤ん坊)と、孤独な妖怪(神様?)です。彼らはそれぞれ「主人に忠実なしもべ」、「駄々をこねる子ども」、「他者に対する閉じた心」などを象徴していて、「忠誠心」と「子どもらしさ」は連れて帰りますが「閉じた心」は旅先に置いてくることで、主人公が成長を遂げたということをさりげなく描いているのです。

「掟」から抜けた先で教わる「伝統」

荒波になすすべもなくさらわれ、モアナはある無人島にたどり着きます。そこにはあらすじにもあった「命の女神テ・フィティの<心>」を盗んだ、半分人間、半分神様のマウイが幽閉されていました。

(つまるところこれは「島流し」なのですが、あえて「幽閉」と書いたのは、これもここ10年ほどの、ディズニーだけでなくハリウッド映画の多くで試みられている、既存のジェンダー規範からの脱却を象徴する様なキャラクター配置に見えるんです。つまり「捕らえらえていたお姫様を王子様が助ける」のではなく、「捕らえられていた屈強な男を、村長の娘が助ける」という構図になっています)

一筋縄ではいかないマウイを(半ば強引に)協力させ、最初にすることはモアナへの航海術のコーチです。上述の通り、モアナは航海に関してはてんで素人なので航海術を学ばねばならないのですが、その航海術を作中では「伝統的航海術」と呼んでいます。手を水平線にかざし星の位置(方角)を確かめ、あらゆる機能を司るロープを駆使しボートを進める、というもの。

ここで重要なのは、物語冒頭モアナは「島の掟≒伝統」を破って海に出たのに、その出た先で「伝統的航海術」を学ぶという、一見矛盾しているかのような行動をする点です。

しかしこれは矛盾などではありません。「温故知新」という言葉があるように、新しく革命的なことをするには、より古くからの歴史を学ばねばならないということを表現しているのだと思います。昨今の「歴史修正主義」なんかを見ていると痛感するのがまさにこの問題で、過去の否定からは何も生まれず、過去を学び、しかし前に進んでいくという、この作品の示そうとしている思想のようなものに、僕は毎回涙ながらに激しく首肯しています。

「ミニミニマウイのタップを見ろよ!」

そして何より、これがこの映画の白眉、舌を巻く要素なのですが、その「伝統」の導き手となるマウイというキャラクター。彼は当然他の全てのキャラクターと同様に3DCGで描かれているキャラクターなのですが、その体には魔法のタトゥーが刻まれています。それはマウイがこれまで行ってきた英雄的行動が、自然に刻まれていくという設定なのですが、その中に「ミニマウイ」というマウイをデフォルメされたタトゥーが描かれています。

これがマウイの体の表面、タトゥーの中を縦横無尽に動き回り、それがとても可愛らしく、また前述の「キャラクターの良心」を表すサイドキック的役割も果たしています。しかしなんとこのミニマウイは、エリック・ゴールドバーグという『アラジン』「ジーニー」を描いた伝説的アニメーターが手掛けているのです!!!

つまり、3DCGアニメーションという最先端の技術を駆使して描かれる世界の中で、「伝統的技術を伝授する」という役割を担っているキャラクターの体に、まさに「伝統的(2D/手書き)アニメーション技術」が使用されているのです。なんて美しい!なんて素晴らしい作品作り/演出だろう!!それがまた単純に可愛いし愉快なんですよ!3DCGキャラのマウイに「うるさい」なんて言われて指でピンっと弾かれちゃったりして。

以上のように、様々な演出を細かく取り出してみても、いちいち隅々まで行き届いていることに、近年のディズニーの、創作に対する真摯な姿勢や手つきが見て取れて感動するとともに、今作は僕にとってかけがえのない作品ですし、つまるところこんな難しいこと抜きにして面白いからみんな観て!!ってことです。

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