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神の島「沼島」と梶原景宗

海賊と坂東武者

淡路島の南端部にある島の最高峰、諭鶴羽山(標高約608m)に登ると、

紀伊水道が箱庭のように見えた。紀伊半島が左手に、四国が右手にあり、

足元には沼島が浮かぶ。淡路島から3キロほどしか離れていないが、

大断層の中央構造線が走り、地質的に大きく異なる。日本創世神話に

現れるイザナキとイザナミが降り立ち、列島の島々を生んだと伝わる

島だ。中世、ここは海賊の海だった。平安時代の935年、土佐国司の

任を終えて都に帰る紀貫之は紀伊水道で、神経を張り詰めていた。

女性に仮託して書いた「土佐日記」には<海賊の恐り在り>と聞

いて神仏に祈ったり、海賊が<夜歩き>しないと聞いて夜間に移動

したりと怯えっぱなしだ。<沼島といふところを過ぎて>の記述も

みえ、島の近くを通ったことがわかる。ちょうどこの時代、藤原純

友の乱が起きるなど、瀬戸内海は極めて不穏だった。純友は海賊討

伐を命じられて都から派遣された役人だったが、いつの間にか海賊

の統領となっていた。沼島の海賊を束ねた人物も純友軍に加勢、

九州・博多で討ち死にしたと伝わる。諭鶴羽山のふもと近くにある

港から沼島に渡った。ボートでわずか10分。集落を抜けて山際の

墓地に着くと、源頼朝の側近であった梶原景時を供養する五輪塔

が立っていた。鎌倉時代前期のものだとされる。鎌倉時代以降、

梶原という名の一族がこの海域でのしあがっていった。きっかけ

は源平の戦いである。景時は瀬戸内海での戦に備え、摂津や淡路、

紀州などの海賊たちをかき集めた。関東の源氏が平氏を凌駕する

水軍力を持ちえたのは、景時の働きが大きかった。景時は頼朝の

没後に失脚して駿河で討ち死にするがその後、梶原を名乗る氏族

が播磨、沼島、紀州、泉州など各地に現れた。一族が落ち延びた

とも言われる。沼島で梶原氏は島を統治する海賊として現れる。

南北朝時代に沼島は南朝方につき、吉野や熊野と伊予などをつな

ぐ拠点となった。室町幕府は沼島の海賊討伐を命じている。

戦国時代にも梶原氏による神社再建の記録があり、梶原氏の

沼島統治は長かったようだ。

後北条氏の傭兵

戦国時代、紀州に梶原景宗という、不思議な海賊が現れている。

水軍の指揮に長けた事を北条氏康に見込まれてその家臣となる。

近年では伊勢湾沿岸と関東地方を結ぶ交易商人としての側面が

指摘されている。広村(和歌山県広川町)の出身だが、遠く離れ

た相模・小田原の戦国大名である北条氏に仕え、水軍を担った。

房総半島、里見氏の水運と対峙し、やがて駿河湾に進出した甲斐

・武田氏に「梶原海賊」と恐れられた。沼島や紀州の梶原が景時

一族の末裔ならば、坂東の騎馬武者は西国で海の武者に変身した

ことになる。数百年を経て、父祖の地に戻ったことにもなるのだ。

ところが、景宗と北条氏の関係は、御恩と奉公で固く結ばれた鎌倉

武士とは異なるドライなものだった。景宗は「このままでは海上の

義務が果たせない」などと、北条氏に再三にわたって知行の増額を

求め、紀州への帰国すら申し出た。仕えるというより傭兵的な存在

であったようだ。北条氏は「いましばらく関東に在国して欲しい」

などと、なだめるように低姿勢である。北条氏が豊臣氏に敗れた

後、景宗は広村に帰ったという。

沼島の人々

天上が高天原と呼ばれていた頃、そこに住まわれる神々が

相談して国を造ることにした。神々はその役割をイザナギ

ノミコトとイザナミノミコトに託し、国生みの道具として

神聖な矛を授けた。そこで二神は、その矛を下界に差し入

れて「コウロ、コウロ」とかき混ぜ引き上げると、矛の先

からシオが滴り落ち、それが重なり積もって島になった。

この神聖な島を「おのころ島」と言う。二神は、おのころ

島に降り立ち、夫婦になって、日本の国土を造られ、たく

さんの神々を生み出した。沼島はその中でも「聖地・おの

ころ島」の最有力候補だと言われている。沼島の南岸に出

ると、イザナギ、イザナミが周囲を回って契りを結んだと

伝わる高さ約30mの上立神岩がそそり立っていた。広川町

は、30キロ離れた対岸に見える。関東や九州とも行き来し

た海賊たちにとっては何ほどもない距離だ。梶原の一族も

行き来するうちに、一方から他方に渡り住んだ可能性は

十分ある。今の沼島は人口400人ほど。静かな漁村という

風情だが、戦前は沼島千軒といわれて商店が立ち並び、

劇場があるほどにぎわっていたという。底引き網漁師は、

昭和6年生まれだった父が「昔は、はえ縄漁で和歌山の

白浜あたりまで櫓をこいで行った」と話していたという。

エンジンを備えて日帰りできる漁場が広い現代よりも、

風や櫓に頼る昔のほうが案外、移動範囲が広がったようだ。

「沼島の言葉は淡路島より和歌山や泉州に近い所もあります」

と漁師は言った。例えば「がいな」という言葉。大きな、

大層なという意味で淡路島ではほとんど理解されないが、

和歌山方面では通じる。漁師の妻は、大阪生まれで結婚

を機に育った環境とは別世界の島に来た。漁師の名字に

ついて聞くと「沼島で1軒。この島の名字は結構バラバ

ラなんです」と言う。寺院の墓石に刻まれた名前を確認

してみると、確かに都会のように多種多様である。地方

の集落にありがちな同姓が目立つということがない。

海を通じた人の流動の大きさを物語るものに違いない。

景時の五輪塔を所有する神宮寺の住職は元教員で、沼島

の出身者が下関や東京・築地の水産業で活躍したのだと

朗らかに語った。寺には司馬遼太郎「菜の花の沖」の文

学碑があった。淡路島出身の豪商、高田屋嘉平衛が主人

公のこの小説にも、沼島が描かれる。司馬は沼島衆が卓越

した航海術を持っていたとし、<世界中で小島の住人は多

いが。沼島衆ほどに気概と高い能力を持っていた海の民は、

稀なのではないか>と大層な持ち上げようである。ところ

で、梶原という名字は今の沼島にはないという。海を渡っ

てきた一族は海を通じてどこかへ、移っていったのでだろう。


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