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大月桃太郎伝説⑤

 「大月桃太郎伝説」第5弾です。
 今回は、初期の「大月桃太郎伝説」が、いつ、現在の形に変化したのかについて考えていきます。
 
 結論からいうと、「大月桃太郎伝説」は、1980年代以降石井深さんという方によって現在の形に整えられていきます。

 さっそく見ていきたいところですが、まずはこれまでの復習です。
前々回の「大月桃太郎伝説③」では以下の3点を考えました。

①この地域と桃太郎の関係を示すものは明治期から狂歌として存在。
②「桃太郎もち」の販売によって話が広がった可能性がある。
③初期の「大月桃太郎伝説」は、地名と従者の名称が関係していると指摘されるのみで具体的な物語をもっていなかった可能性がある。

 「大月桃太郎伝説③」の内容がわからない方は、下記よりご確認をお願いします。

 初期の「大月桃太郎伝説」は狂歌であり、岩殿山の鬼とは戦いません。現在の「大月桃太郎伝説」とは大きく異なります。この内容の変化については一人の人物が大きく関わっています。それは石井深さんという方です。

 石井さんは、小学校で教員をされていた方で、退職後に大月市内の伝説や民話を収集し、『大月市の伝説と民話』、『郷土の民話』を作成しました(石井1980a、1980b)。

 いわゆる郷土史家ですが、『大月市の伝説と民話』、『郷土の民話』ともに地域の古老から聞き取りによって集めた話ではなく、『甲斐国志』や『北都留郡誌』に記載されたものがほとんどで、子どもや一般の方に分かりやすくアレンジして伝えるという活動を行っていました。伝説や昔話以外にも郷土史について色々と研究をされた方で、特に戦国期の郡内領主について色々な見解をお持ちです(これについては別の機会で触れられたらと考えています)。

 さて、この石井深さん(以下敬称略)ですが、先述したとおり1980年に『大月市の伝説と民話』、『郷土の民話』を作成します。いずれも手書き原稿をコピーし、ホチキス止めにて製本された手作り小冊子です。
この2つの小冊子は大月市立図書館をはじめ市内各地の小中学校の図書館に配布されました。『大月市の伝説と民話』には「桃太郎」、『郷土の民話』には「岩殿山の鬼退治」というタイトルにて、後の「大月桃太郎伝説」が記載されています。これによって、小中学生を中心に少しずつこの話が認知されていったものと考えられます。
※市内には「大月桃太郎伝説なんて知らねえな。聞いたこともない。」という方も結構おり、そういう方は比較的高齢者が多い印象です。統計データはありませんが。

 「大月桃太郎伝説」の話の内容がわからない方は、下記にてご確認ください。


 石井の紹介した話は、これまでの「大月桃太郎伝説」が狂歌だったことに比べると、物語の形式を持ったことが大きな変化であるといえます。
 
 また、鬼が棲み、戦いの舞台となる「岩殿山」、桃の木が生えていた「百蔵山(かつては桃倉山だったとする)」、お婆さんが桃を拾った「鶴島」、鬼の武器として「鬼の杖」、死亡した鬼の臓物や血として「鬼の腸」、「鬼の血」が登場します。これらは狂歌の桃太郎には存在しません

 この「桃太郎」、「岩殿山の鬼退治」は、石井が自身の祖父から聞いた話であることが判明しています(齊藤2007)。

 石井の『大月市の伝説と民話』、『郷土の民話』を皮切りにして、1980年代以降、山梨県内の昔話や伝説をまとめた本の中には「大月桃太郎伝説」が登場するようになります。

『甲州むかし話 下巻』(あずさと・かげやま1985)
 ここに収録された「大月桃太郎伝説」は、桃が不作で貧困極めた夫婦が、桃の箱に子どもを入れて川に流し、下流で老夫婦に拾われ、その子は桃太郎と名付けられ、岩殿山で鬼退治をするという話になっています。ちなみに、この話の中では、鬼の血、鬼の腸は登場しますが、鬼の杖は登場しません。あとがきに脚色を加えたということが明記されていますが、出典は明記されていません。

『郡内の民話』(内藤・鈴木1991)。
 ここでは「桃太郎」として「大月桃太郎伝説」が掲載されています。この中では、石井の『大月市の伝説と民話』が参考文献としてあげているため、石井の「桃太郎」がもとになっていることが分かりますが、加えて新潟県の桃太郎話をヒントに創りかえたと記載されてます。百蔵山の土砂崩れによって、男児が長持に入って流され、鶴島で老夫婦に拾われ、百蔵山にちなんで桃太郎と名付けられるという点と、鬼の杖、鬼の血、鬼の腸が出てこない点が現在の「大月桃太郎伝説」と異なってます。

 その後、1995年~2005年頃には、大月市役所発行の観光ガイドマップに紹介されるなど(古川2005)、「大月桃太郎伝説」はPRされていきます。が、観光ガイドマップ掲載への継続はみられず、定着はしなかったようです。

 私も2005年頃の大月商店街に「大月桃太郎伝説」と書かれた幟がいくつか設置されていたという記憶があります。あの時写真の一枚でも撮っておけばと…。

 2005年には日本ステンレス工業株式会社によって『心に舞う 岩殿』が刊行されます。
 この本には、石井によって「桃太郎の伝説」というタイトルで「大月桃太郎伝説」が掲載されています。この「桃太郎の伝説」では、以前のものより詳細に内容が記載されている箇所があり、『大月市の伝説と民話』、『郷土の民話』から一層肉付けが進んだといえます。
 具体的には以下の3点があげられます。
①鬼の棲んでいる岩殿山は山体の岩石が水成岩であるため、かつては島で、まさに鬼ヶ島となっていた。
②徳巌山へ逃げようと足をかけたところ、桃太郎に股を切られた
③鬼は金銀財宝を「新宮洞窟」と「権現洞窟」にという洞窟に隠していた。

 ②がなんだか嫌な感じですよね。桃太郎、なぜそこを狙った?
 
 2013年に大月の民話を語りつぐ会が、石井の『大月市の伝説と民話』、『郷土の民話』を参考にして「大月桃太郎伝説」の紙芝居を作成し、その内容を記した小冊子『大月桃太郎伝説』が作成され(大月の民話を語りつぐ会2013)、大月市立図書館や市内の小中学校へ配布されると、再び大月市と昔話桃太郎との関係について注目されるようになります。

 2015年には名勝猿橋周辺地区活性化委員会が小冊子『大月桃太郎伝説』を作成します。この中で、円通寺新宮跡が鬼の棲んでいた「鬼の洞窟(現在は岩屋)」として、同じく円通寺跡地内にある「岩船地蔵」が桃太郎に関係する地蔵であると指摘されています。
 そして2016年の「桃太郎サミット」の大月大会の開催を経て、「大月市には古来より独自の桃太郎が伝わっている」、「大月こそが桃太郎の発祥の地である」として積極的にPRされるようになり、現在に至っています。

 ということで、「大月桃太郎伝説」がいろいろな本に収録されるようになったのは1980年代以降であり、その嚆矢となったのは石井深による『大月市の伝説と民話』、『郷土の民話』の刊行であったということが分かりました。「大月桃太郎伝説」の変化には石井深さんの存在と活躍が非常に大きかったといえます。

 いかがだったでしょうか。
 ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

 次回は、「大月桃太郎伝説」によって、本来持っていた伝説が書き換えられてしまったモノ達についてみていきたいと思います。



【参考文献】
あずさとりょう、かげやませんり1985『甲州むかし話 下巻』、山梨日日新聞社、pp.34-pp.35。
石井深1980a『大月市の伝説と民話』(手作り冊子)。
石井深1980b『郷土の民話』(手作り冊子)。
石井深2005「桃太郎の伝説」『心に舞う2 岩殿』、日本ステンレス工業、pp.122-pp.123。
大月市の民話を語りつぐ会2013『大月桃太郎伝説』(手作り小冊子)。
齊藤純2007「猿橋の桃太郎-見立てから伝説へ-」『世間話研究』第17号、世間話研究会、pp.1-pp.25。
内藤恭義・鈴木茂治1991年『郡内の民話』、なまよみ出版、pp.125-pp.126。
古川克行2005「桃太郎伝承地を訪ねて」『桃太郎は今も元気だ』、おかやま桃太郎研究会、吉備人出版、pp.158-pp.200。
名勝猿橋周辺地区活性化委員会2015『大月桃太郎伝説』(手作り小冊子)。



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