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浅利式部鬼退治

 最近、昭和34年に刊行された『大菩薩連嶺』という本を入手しました。
 大菩薩連嶺とは、大菩薩峠から笹子峠まで連なる山脈のことで、この本には、作者、岩科小一郎氏のグループが昭和10~20年頃(推測です)に大菩薩連嶺とその周辺地域で行った近世・近代の資料調査(地誌や石造物など)や現地での聞き取り等の成果がまとめられています。
 今では聞くことのできない話なども収録されていて興味深いのですが、なかでも個人的に興味をもったのが「浅利式部鬼退治」という話です。地名の由来が、浅利式部が行う鬼退治の物語の中で説明されており、大月桃太郎伝説に通じるものがある思ったからです。
 以下に『大菩薩連嶺』から「浅利式部鬼退治」を抜粋して紹介します。

浅利式部鬼退治


 大月から賑岡町浅利に向かって左手、花咲境をなす端山に、松などがしょぼしょぼ立って、南面は巉岩、頂に小祠があって姥子さんと呼ばれている山がある。そこを一名鬼窪山といって、鬼が住んでおり、唱歌の文句にある通り、里に出ては人を食い、若い女をかすめ取るなどの悪業が行われていた。一説には鬼ではあらで工藤祐経の残党がこの地に来て山賊化したのだともいうが、いずれにしても鬼畜に等しい輩がいたのである。
 そのころ浅利の日向ノ庄に浅利式部太郎義知とて、壇ノ浦の戦いに遠矢の誉れを得た与一義遠の一子とあるからに、その武勇のほどが思われる豪傑が住んでいた。式部は近隣住民に禍いをもたらす鬼退治を思い立ち、まず、家の子中井左京と手勢を二つに分け、一手を浅利の指平(さすでいら)の東北付近から、自分は駒橋より里人を引具して押出した。
 時に大将義知は、わが手練れのほどを鬼どもに見せてくれようぞと、白作り握り太なる弓に白箆十四束二つ伏せを植えたる切鏑矢に鵠の霜降羽を割合わせて剝いだる征矢をつがえ、息付く隙もなく射立てた。その弓勢の鋭さは何ものにも譬えようもなく、里人は今にその武者振りを記念して、この地に矢向来(やごうら)の地名を与えているのでも知られる。
 さしもの鬼どもも、この弓勢に射すくめられ、次第に東方に矢を避けねばならなくなった。そこを里人はシノギといっている。そして腹背に敵を受けた鬼軍が、衆には敵しがたく散々に敗亡、首魁は追われて岩殿山の頂に追い詰められ、ついにそこで捕らえられてしまった。式部は岩殿部落に鬼の首魁を引立てて、そこで首を斬った。いまの賑岡村役場の裏手に赤土といって、いくら掘っても赤土が尽きない所がある。そこが鬼の斬首された所で、鬼の血が大地にしみて赤くなったと伝える。
 式部が鬼の首を斬った太刀は鎌倉殿から拝領した業物、刀がまだ鬼の首に触れぬうちに、鬼頭はキリキリ舞い上がって西を指して飛んでしまった。見ていた里人はビックリして、捨てておいては祟りの種と大騒ぎして探すと、七保村田無瀬の裏山で発見したとの知らせで、式部が現場に赴くと鬼の首は、まだ歯を食いしばって揺らいでいたから、のちにこの地をユルギといった。
 さて、首を持ち帰って公衆に見せておくと、鬼の手下が来て盗んでいってしまった。この手下はいささか人間並みに利巧な者だとみえ、親分の首を葛籠に入れて持ち歩き、日影入の勘蔵部落に来て宿を求めた。現在ウンニヤードという家号の家がこの鬼を泊めた家だという。したがって鬼宿と書くのが正しいと伝える。翌日は西奥山にはいろうと峠路にかかると、葛籠が重くなってどうしても歩けない、仕方なく葛籠を捨てたところが今のトズラ峠である。この葛籠はのちに日影の上手(わで)の某が拾って帰り、蓋を開けてはいけないと開けずに置いたら、みるみる家は富み長者になってしまい、後日開けてみると中は何もなかったばかりか、すっかり福払いになって、元の無一文にもどってしまった。そこでくやしがって日影の横バリ沢へ捨ててしまった。横バリとは厄払いの訛りであると、この一夜長者の子孫は現存している。
 鬼の手下は峠を越して現在の遅能戸(おそのと)部落にはいって、里人をたばかる手段として、こんな事を触れ歩いた。
「わしは鎌倉の住人でござる。私主人アニ尼様、故あって鎌倉殿に祟りをなしたりとの科(とが)にて打首に相成ったけれど、アニ尼様はそのような不埒な御方様ではござらぬ。生前に善事を積み、慈悲を下々に垂れさせられた結構な御方じゃ、これなる首を拝する輩は来世は極楽、これを祀り拝する者には子宝を授けようぞ、子を産む者には安産を得させると御告げがある。また、この流れの水を飲む者は誓って産で死ぬことはござるまい」この有難そうな言葉を真に受けて、祠を建てて祀ったのが今の子安明神(宮沢神社)である。鬼の頭を祀ったからオニノトウ、これが転じてオソノトの地名が生まれたのである。

岩科小一郎1959「浅利式部鬼退治」『大菩薩連嶺』明文堂 pp.197-199

「浅利式部鬼退治」と地名

 「浅利式部鬼退治」では、物語の中でこの地域の地名の由来がいくつも説明されています。
①鬼の住んでいた鬼窪山(おにくぼやま)
②浅利式部が矢を射立てた矢向来(やごうら)
③鬼が矢を避けたシノギ
④飛んで行った鬼の首が揺らいでいたユルギ
⑤鬼を泊めた鬼宿(ウンニヤード)
⑥鬼の手下が葛籠を捨てたトズラ峠
⑦一夜長者が葛籠を捨てた横バリ沢(「厄払い」の訛りとする)
⑧鬼の頭を祀った遅能戸(鬼の頭→オニノトウ→オソノト)
 その他、鬼が斬られ、血が染み込んだ鬼の血など…。まるで地名由来譚のバーゲンセールだな、と思える状況です。

浅利式部=浅利知義?

 「浅利式部鬼退治」では、浅利式部とは浅利与一の息子、浅利知義として話が進められています。しかも鬼は工藤祐経の残党との説も登場。残党…?『曽我物語』から何らかの影響を受けたのでしょうか。
 しかし、一般的に浅利式部といえば、武田信玄に仕えた浅利信種が思い浮かびます。浅利信種は、武田軍と北条軍が戦った三増峠の戦いで戦死しますが、武田家でもなかなか格が上の家臣といっていい人物です。ここで一つの論文を紹介します。末木健氏による「大月三話-鳥沢・大月・浅利-」『山梨県考古学論集Ⅷ』(2019年)です。
 末木健氏といえば、現在の山梨県考古学協会の会長であり、浅利氏についても詳しいお方です。末木氏は『甲斐国志』や浅利村の村絵図の検討、無辺寺周辺のフィールドワークを通じて論を展開しています。重要なところを記すと、浅利集落は岩殿城の根小屋的な集落であった可能性があること、そして、浅利信種が16世紀中頃に岩殿城や根小屋の管理のために詰めていた可能性を想定し、その拠点として浅利集落があったのではないか、と考察されています。資料に乏しく決定的なことはいえないとしながらも、小山田論ばかりが先行する岩殿城や、浅利与一・知義との関連伝承に目がいきがちな浅利地区に対して、別の視点で捉えているところに魅力を感じます。また、『甲斐国志』には、浅利信種の守本尊と伝わる不動堂が無辺寺の裏山にあるとの記載があるようで、これについては現地を確認したいと思いました。
 なお浅利地区には、割と知られた存在の与市地蔵のほか、分骨された浅利信種の墓もあったりします。

与市地蔵

浅利信種の墓(表裏)








若干の考察

 考察というより勝手な想像です。
 「浅利式部鬼退治」は、この地域の地名について説明するために創作された話と考えます。浅利地区に伝わる浅利氏という有力武士の存在が『平家物語』や『曽我物語』などの影響を受けて、浅利氏とは浅利与一・知義だと特定され、さらにこの地域の地名と符合するよう話の筋が整えられ、「浅利式部鬼退治」という、浅利式部による鬼退治と、その結果このような地名が誕生したのだと説明する話が創作されたのではないかと。現時点ではこのように考えておきます。

おわりに

 以上、『大菩薩連嶺』の「浅利式部鬼退治」から始まり、浅利地区について末木健氏の論文を紹介し、若干の考察を加えてみました。今後は「浅利式部鬼退治」に登場する場所や浅利信種の守本尊があった不動堂など、少しづつ紹介できればと思います。
 ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

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