日本は「和を以て貴しとなす」話し合い、「水に流す文化」と「恨の文化」の韓國では水と油だ!
日本人は古代から、古代神道の影響で穢れを極端に嫌う文化を
持っています。穢れは汚れとはまったく違います。
一番穢れているのは死体で、それを日常的に触ることが穢れに
あたります。
たとえば、亡くなったおじいちゃんやおばあちゃんの茶碗や湯飲み、
箸などを煮沸消毒して顕微鏡レベルで汚れがないと確認されても
あなたは使いますか?
何となく、毛嫌いする感覚、文化がこの穢れを嫌う日本人の
特性なんです。
禊ぎという言葉はあなたもご存じでしょう。
清らかな水で穢れを流すことが「水に流す」ということなのです。
つまり、過去にあったことを、すべてなかったこととする。
過ぎ去ったことをとがめないことにするということで 水にする、
水になすという言い方もします。
そして、聖徳太子の時代の一七条の憲法の最初の第一条では
和を大切にし、何事をやるにも、みんなが仲良くやり、諍いを
起こさないのが重要であると書いてあります。
最後の17条で、物事は独断で行ってはならない。必ずみなと論じ合い、
話し合いによって道理にかなったやり方を見出すことができると
一条に追加するように書いてあります。
憲法ですから、一番最初と最後に最もたいせつにするべき要諦が
書いてあるのです。
いっぽう、お隣の韓國の人たちは、「恨の文化」が根底にあります。
「恨ハン」とは、
朝鮮民族にとっての「恨」は、単なる恨みや辛みだけでなく、無念さや
悲哀や無常観、(虐げる側である優越者に対する)あこがれや妬み、
悲惨な境遇からの解放願望など、様々な感情をあらわすものです。
「恨」は悪い意味ばかりでなく、将来への希望を見つけるための原動力、
パッションという意味もあります。
この「恨の文化」は長年、朝鮮民族が周辺諸国から虐げられて屈辱を
味わったことに対して、社会的抑圧によって塞がれた挫折感、鬱屈した
感情が存在し続ける限りずっと存在し続けるものなので、ほんとうにやっかいで、
根深いものがあります。
この「恨の文化」を詳細に知りたい場合は、井沢元彦著「恨の法廷」と
いう小説がほんとうによく著わしているのでご一読いただければ
幸いです。
私自身もお互いしばらく会ってなかったサラリーマン時代の後輩に
読むことを勧められて読んだところ、これでは日本と韓国が話し合いで
仲良くやっていくのはほんとうにたいへんだと痛感させられました。
しかし、お互いがこの話し合いで「水に流す文化」と「恨の文化」を
認識して違いを理解できる土俵ができれば、今まさに大統領が替わろう
としている韓國との関係をうまくやっていけるのではないでしょうか?
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