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欺き欺かれて

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嘘に関する記事を不定期に追加していきます。嘘を善悪で語るのはナンセンスだと思うの。
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#雑記

色づく世界

昔の出来事を一部だけ鮮明に覚えていることがある。当時は流れ行く記憶の1ページにすぎなかったものが、後になって自分にとって大切な何かだったと気づくのだ。そうやって自己を知るのは楽しい。 小学校の体育館で壇上の誰かが作文を読んでいた。弁論大会優勝者のウイニングランだった。視覚障害者に寄り添いたいという今で言うダイバーシティの話で、その中の一文が忘れられない。 「目を閉じると怖くて一歩も足を踏み出せませんでした」 相手の立場になってみるのはいい。しかし、嘘は良くない。ビルの屋

フライドチキン狂想曲

ネット上ではエイプリルフールが企業主体のメジャーなイベントと化している。オフラインとの温度差がこれほど大きい現象も珍しい。仕掛ける企業があまりに多くて僕はもう自分から追いかける気力がなくなってしまった。 そんな中でケンタッキーのニュースを見た。 詰め放題と聞いて駆け付けちゃう人たちが愛おしすぎる。騙されたことは本当に気の毒だと思うし、嘲笑する気持ちはまったくない。ただ、店頭で嘘だと知ったときの表情を想像するとどうしても頬が緩む。 たぶんマクドナルドのビッグマックではこの

最近のネット広告ときたら

前回のつづき テレビCMはまだ可愛げがある。番組とは完全に独立していて、繰り返し見せられるにしても本編が頻繁に中断されるとか視聴時間の割合が多少増えるくらいで済むからだ。 対してネット広告の厚顔無恥っぷりは目に余る。昔はウェブサイトのレイアウトの一部にバナー広告が置かれる程度だった。限られたスペースで印象を残すために趣向を凝らしたキャッチコピーも多かった気がする。 今でも面白い広告は見かけるが、それ以上に小賢しい広告が増えた。スマホの狭い画面でブラウジングする人が増えた

大人は意外と大人げない

↑前回のつづき 途中から無意識に小さな子供をイメージしながら書いていたが、期待に応えられなくて嘘をついたり、誤魔化したり、逆ギレしたりするのは年齢に関係なくあり得る。大人はそんなことしないと思っていると裏切られる。 それ自体が期待になっている。 大人は大人らしく振る舞うべきだと期待しているのである。その結果、何が起こるかと言うと嘘が巧妙になる。失敗を隠すために下手な嘘をつくのは大人げない。だから「記憶にございません」とか言い出す。 やるせない。二重の失望に苛まれつつ、

計画通りに行かなくても

リボ地獄の弟に計画性を持てと説教したことがある。月の予算を決めて日割りした金額を目安に毎日生活するよう勧めた。自制心だけでは難しいかなと週に一度支出を振り返る会を設けたら平然と虚偽申告していて僕の心は病んだ。 他人に干渉するもんじゃないと改めて思った話だが、計画と実行の大切さを再認識した出来事でもあった。 計画は目的を達成するために立てられるものだ。結果が出るまで成否がわからないのはギャンブルに近い。途中経過が計画とズレ始めた段階で対策を打てれば成功率は高まる。 大きな

褒め言葉のインフレ

心臓が止まるかと思った経験は何度かある。が、本当に止まると思ったことは一度もない。あくまでそのくらい驚いたという誇張表現だ。身も蓋もない言い方をすると嘘にあたる。 大げさに言うのは楽しくて気持ちいい。聞き手もそれをわかっているので額面通りには受け取らない。そういう暗黙の了解がある。ただ、行き過ぎるのは良くないと自戒するようにはなった。 最近、料理の動画やレシピがやたら目につく。自分から探しているつもりはないが、閲覧履歴からオススメされているのかもしれない。で、そのタイトル