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視覚の話とも通じる。僕が見ている赤いトマトが他の人にも同じように見えているとは限らない。眼球を取り替えっこしてみたら違う色に見えるかもしれないし、そこから脳に送られる過程でさらに別の変化をしている可能性もある。 土鍋で炊いたごはんは美味しいとよく言われる。実際にその通りだと思っていたが、こうも上手く炊けない状況が続くとそれも疑わしく思えてくる。美味しいと言う人たちが全員同じ味のごはんを食べているわけではない。 あるサイトでは土鍋での炊き方を解説して最後にこう締めくくった。
↑前回のつづき 土鍋ごはんが美味しいと聞くと炊飯器で炊くより美味しいと言っているように聞こえる。パックごはんが美味しいと聞くと炊飯器で炊くのと遜色ないレベルで美味しいという意味に聞こえる。 これは土鍋ごはんが炊飯器と同程度に美味しいだけならわざわざ言う必要がないという暗黙の了解があるからだ。レンジ調理は簡単さと引き換えに味の犠牲はやむなしという認識があるからハードルが下がっている。 しかし、相手は他人である。暗黙の了解や一般的と思われる認識が通用するとは限らない。同じも
物流業界の言葉らしい。以前、テレビのニュースで初めて耳にして妙に感動したのを思い出した。 トイレットペーパーは軽くてかさばるため、トラックの積載重量にいくら余裕があっても荷台に収まる分しか輸送できない。この状況を指して「空気を運んでいるようなもの」と表現していた。 運ばれる空気に価値はない。ずいぶん昔にハワイの空気の缶詰が話題になったりしていたが、製紙工場の空気を欲しがる人がいるとも思えない。要は実質的に荷台がスカスカだと言いたいわけだ。 似た言葉に「雲を掴む」とか「空
誰かが岸田首相につけたあだ名である。一般には悪口と捉えられていて、その空気がさらに悪口の印象を強めているが、僕はそこまでの悪意を感じない。まあ、こういうのは本人がどう感じるかが重要なのだとは思うが。 最初に言い出した人が増税に反対なのか、あるいは容認しつつも愚痴をこぼしたいだけなのかはわからない。どちらにしても距離感は近い。これを無礼と解釈すればなるほど野次にも悪態にも聞こえる。 しかし、気安い意見とも取れる。お上に対して下々の者が顔色を伺いながら述べる陳情ではなく、同じ
そう呼ばれたことがある。この話は最後までちゃんと聞いてもらわないと嫌味な自慢になりかねないので誰かに話したことはない。過大評価が独り歩きされても困る。 開発したソフトウェアのデバッグで大阪に出張したときのことだ。報告された不具合をその場で秒殺していたら関西人のお客さんが独り言のようにつぶやいた。 「伝説のプログラマーや……」 実際には電灯を設置したのに電球を付け忘れていたレベルの凡ミスを連発しており、言われて気づいて修正するという惨状だった。それが傍目には凄腕の技術者に
あんこが入った例のお菓子のこと。僕の地元では「今川焼き」と呼ばれていたが、地域によっていろいろな呼び方がある。あまりにも混沌としているので全国的に通用する名称として誰かが提唱したらしい。 本気で統一を目指していないことは語感からわかる。 モチョチョに意味はないようだ。これは北のほうで使われている「おやき」という呼び名が長野では別の食べ物を指すことを揶揄しているのだろう。モチョチョならおそらく他の何とも重複しないからね。 縁日のようなイベントでは「大判焼き」もよく見かけた
1987年のPCゲーム『イース』でラスボスを倒したあとに読めるメッセージの一文。ストーリーは正直よく覚えていないが、詩的で美しいこのフレーズは強く印象に残っている。 かなり古いゲームなので当然エンディングにムービーが流れたりはしない。最終ダンジョンであるダームの塔が朝日に照らされて浮かび上がるシルエットを背景にエピローグが語られるシンプルなものだったと思う。 朝焼けと追撃の対比に妙がある。主人公がボスを倒したおかげで魔物がいなくなったことを暗示していて、大きな脅威がついに
最初にスーパーで見かけたときは二度見した。調味料の棚にあったから塩であることは間違いないのだろうが、だとしたらクレイジーも言葉通りの可能性がある。狂った塩って一体どういうことだよ。 要するにスパイスなどが配合された塩らしい。味塩こしょうみたいなものだ。正体が判明すれば意外と普通で、少しガッカリしている自分がいる。 とはいえ、口に入れるものにクレイジーと名付ける感覚はなかなかの狂気だと思う。知らなかったら確実に警戒する。実際、初見では手を出せなかった。 本当に食べて大丈夫
最終回みたいなタイトルだが、そうではない。これほどありふれた言葉なのに久しく使っていないことに気づいたのだ。小学校の帰りの会でテンプレート的に「先生さようなら」と言っていたのが最後だった気がする。 語源を調べると「左様ならば」が変化したものらしい。それまでの会話を切り上げて、あとに続く「ごきげんよう」や「また明日」などの挨拶につなげる接続詞として使われていたようだ。 つまり、この言葉自体に意味はない。単純に接続しているだけ。重要なのはあとに続く言葉のほうなのだが、なぜかそ
昔、テレビのCMで見て、ささやかに感動した好きな言葉。商品を思い出せないのでACジャパンの広告かと思っていたが、ググってみると意外にも焼きそばUFOのCMだった。 完食を奨励するために食事を差し出すというのはマッチポンプのような気がしなくもない。商品のイメージと結びつかないことを合わせて考えると、とにかくメッセージとして伝えたくて無理やりねじ込んだのだと思う。 その価値は十分にあったと考える。 エコロジーというかエコ活動に対するモヤモヤ感が常にある。意義は理解しているし
昔、テレビのバラエティー番組「お試しかっ!」の中でタカアンドトシのタカさんが言っていた言葉。 前後の詳しい会話内容はよく覚えていないが、苦手な椎茸を食べさせられそうになった彼が椎茸の嫌いな部分を必死にあげつらうシーンが可笑しかった。 正しい名称が出てこなかったのだろう。椎茸の軸(柄)のことを「持つところ」と表現したのだ。椎茸の持ち方なんて誰にも定められていないが、言われてみればあの部分以外にない。言い得て妙。 似た発想としてはバカリズムさんのフリップ芸「都道府県の持ちか
10年ほど前に発見されたネットワーク周りの脆弱性のこと。とっくに対策が講じられていてサーバー管理者がサボっていなければ穴は塞がれている。脆弱性なんて最初から無い方がいいのだが、警告の意味が込められたこの名称を僕は気に入っている。 常時稼働していなければならないサーバーにも故障やトラブルは起こりうる。その際、すぐに気付いて対処できるように別のサーバーから生存確認が行われる。「生きてるかーい?」という呼びかけに「生きてるよー」と返ってくればサーバーは健在だ。これを定期的に延々と