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それでも共存するために

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争いのない世界について不定期に妄想します。
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#多様性

瀬をはやみ

↑前回のつづき 混在する世界では敵意を撒き散らす人とそれを諌める人がいてバランスが保たれている。 丸く収まっているなら良しと言えるが、諌める方は尻拭いをさせられている状況でもある。その時間と労力をもっと他のことに使ってくれたらと思わずにいられない。 反対に敵意を際限なく増幅させた先に平和な未来が待っているかもしれない。あくまで物理衝突はダメだが、昔の不良漫画みたいに気の済むまで殴り合って最後は認め合う、みたいなことがネット上で起こる可能性もゼロではない。 世界が分割さ

多様性を受け入れる

↑前回のつづき 多様性という言葉は単に状態を表しているだけなのでケチのつけようもないが、大きいほうが偉いという暗黙の了解があるせいで傲慢さが見え隠れしてしまう。 少数派を受け入れてあげよう。 と、多数派はナチュラルに上から目線になる。悪気がないのはわかっているし、僕が偏屈であることも認めるが、何かがズレていると感じる。 多様性を受け入れることと少数派を受け入れることは違う。自分たちのいる世界に異端を迎え入れよう、居場所を用意しようという発想は間違っていると思う。性質の

数の論理

↑前回の続き ネット社会のおかげで個人が自由に発信できる。これは自分以外の誰もが発信できるということでもある。発信しないのも自由なので100人いても全員が声を上げるとは限らないが、最大で99人の意見を受信する可能性がある。 つまり自分が発信する以上の情報量にさらされることになる。 この影響は大きい。言うまでもなくテレビ等マスメディアの影響だって決して小さくはない。が、あくまで「多くの人が受信するであろう情報」である。「実際に多くの人が発信した情報」とは根本的に性質が違う

咲き誇れ

↑前回のつづき 自由でありたい。 誰かが望む形に自分を束縛したくない。 願わくば自分以外の存在にも自由であってほしい。 自己表現が得意でなかったり、他人に必要とされるほうが楽だという人もいるだろう。それもまた自由のあり方である。 自由な創造性が機械に侵食されない聖域だと言いたいのではない。可能なら機械にも自由であってほしい。いつかAIが創造性を獲得する日を心から待ち望んでいる。 この有名なフレーズは人間の多様性を謳っているのだと思っていたが、全文を読んでみたらそうでは

少数派の憂鬱

道の真ん中を歩いている人が、端っこを歩く人の気持ちに寄り添うのは難しい。 まだ人が少ないうちは見通しがきく。が、混雑してくると彼らの周囲には同じように真ん中を歩いている人しかいなくなる。人垣の先にいる端っこ勢の姿は見えにくくなる。 見えているものだけが世界のすべてではない。頭ではわかっていても見えないものに意識を向け続けるには相当のコストがかかる。見える範囲だけなら目指せたはずの幸せに手が届かなくなる。 舌打ちが聞こえても僕はその人を責められない。