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母と私



私は上京して半年過ぎたころに
母との関係を変えていこうと決めた。


共依存とは
「依存者の世話をすることに依存する」、いわば人間関係に依存する依存者なのです。
引用:著者・発行者(こころのこくばん)「共依存と依存」、(URL 閲覧日:2019/04/29)


母が23歳の時に私を生んだ。母の仕事は掃除のパートを少々と内職。
私の2歳上に弟がいる。家には母、父、弟、祖母。
関係は悪いというわけではないが、私も弟も父とはほとんど話さない。
話さなくなったのは思春期の頃から
何を話していいかわからず、父親なのに、照れるのだ。
弟も私も、話すのは母を軸にしている。


私は、幼少期、保育園児くらいからすでに
親に喜んでもらうこと、期待に応えることを意識していたと思う。

おじいちゃんおばあちゃんに好かれる自分は両親にとってうれしいから
好かれるように振る舞う。
本当はもう少しお小遣いが欲しいけど
無理なことを言って困らせたくないから、我慢する
学校で嫌なことがあっても言わない。

中学生になり
自分自身との葛藤も生まれだし、
父との関係は悪くなったが
母との関係はそこまで悪くはなっていなかったと思う。

高校に入り、精神状態が落ち着き
母の会社の愚痴、私の日々の愚痴も言うようになったと思う。
私は高校時代、クラスになじめず友達を作らずに
学校が終わるとすぐ家に帰っていた。
体育、修学旅行、球技大会、そういう行事がとにかく嫌だった。

家に対しては、なんとなく、切り離されたくない。
ここが私の居場所という気持ちがあった。

大学に入り、国公立の大学に落ちて私大に入ることになったため
家を出なければならなくなった。
母が寂しがる。お金が掛かる。そんな気持ちで
大学生の時はほとんど月に1回は帰省していた。

2,3か月に1回は母が私の住むアパートに来ていた。
父の仕事の出張にくっついて私に会いに。

そうして大学生活が終わり、社会人へ。
大学入学した当初から地元に帰るつもりだった
宣言通り、地元へ。
しかし、2ヶ月で離職することに

私は彼の居る東京へ行くことに決めた。
母と別れる後ろめたさ
私が居なくなったら、誰に愚痴を話すのだろう。辛くなって鬱になったりしないだろうか。
とても不安だった。
でも一方で私の人生の歯車も動き出し、選択が迫られる中で
私は東京へ行くことを選んだ。

東京へ行く話をするときは本当に揉めた。母は泣き出した。

「数年したら帰ってくるから
ずっと、一生東京にいるわけではないし
仕事を辞めて新しい仕事を探すために東京に行かせてほしい。」

そんなことを何度も行って説得したと思う。

それから2年、今も東京に住んでいる。

私は今、転職するか、今の会社に留まるか
この悩みを半年以上抱えている。

環境に適応するためには
人を受け入れて、徐々に変わらなければならない。

きっと、母に相談したら
「辞めたほうがいい。無理なことをしなくてもあなたに合うものはあるから」と、言葉を掛けてくれるだろう。

その言葉も正しいし、甘えたくなる。

でも、そうしていいかわからなくなる。

私は母のそばにいたら
母が喜ぶような振る舞いをし続けて生きていく。
私はそんな自分に安心するし、家という安心する場所があるから
大きな変化なく、生きていくんだと思う。

でも、それじゃあ
私という人間が幹につながったまま栄養を奪い合いながら
やがて朽ちていく気がした。

できれば一人で花を咲かせたい。

きっとそれは母にとっても良いことだと思うから。

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HSPでINFP型の私が
日々の生きづらさを感じながら、目に見える風景や場面を切り取りたく。
下記サイトにて秋田と東京をメインに写真を載せています。エッセイも掲載しています。
よければこちらもどうぞよろしくお願い致します。

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