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びわこ一周旅行④


きのうの晩餐


昨晩は運転を切り上げ、賤ヶ岳で早めの就寝でした。と言いつつ、最大限人に会わないようにしてるので朝4時に起きて行動してるので旅行中はこんな感じです。ミュージアムが開く前に構えているか、入場時間が関係ない寺社や遺跡は早朝に行くことが多いですね。京都ではよくお勤めに行きます。


さて、今日は角倉デーです!

近江商人がなぜ角倉かというと、わたしの調べている角倉素庵は近江の佐々木源氏が近江商人が活躍していた場所を治めていたからです……!たぶん!そして与一のご先祖が治めていた辺りにも行きます!

と言いつつ、本当に六角佐々木氏の名前だけ知っている程度なのでいろいろ知れるといいな……



近江商人博物館・中路融人記念館


中路融人は四条派の系譜に連なる画家。名前だけずっと知っていて、今回滋賀県美で出会えたので作品を観ることができてうれしい。



近江商人らしく(?)ロビーには天秤棒や千両箱が……!

もちろん担いだ


近江商人はそのたくましさから、天秤棒さえあれば少ない元手で千両稼ぐといわれます。重さよりもバランスを取るのが難しかったです。


特別展があるのを知らず常設に入っていく


撮影NGなので所感をつらつら書きます。



いつぞやの汚いメモ

角倉素庵は本姓を吉田、通称与一と呼ばれました。角倉は屋号で素庵は隠居後の名前ですね。ほかにも諱とかいろいろありますが、今回は省略。

与一の5代前、高祖父よりもひとつ上の世代の徳春(とくしゅん)はもともと愛知(えち)郡で吉田を名乗っていましたが、京都嵯峨に移住して室町幕府(義満・義持)に仕えます。どうやら医者だったようです。


そして医者や儒学者を輩出しながら父・了以の代には始まっていたとされる金融業や朱印船貿易で財を成します。

先述のとおり、宇多源氏の佐々木氏がルーツであり、近江商人の街ということで、なにかあるにちがいない、そんな無根拠な勢いだけで福井から舞い戻ってきました……


○○商人とは本拠地によって名前が変わるそうで、近江商人とは近江に本拠地を置く商人たちのことです。ルーツはもともと小幡で活躍していた商人にあるよう。




🌾ここからすっごく端折った歴史を説明をします。


近江源氏とも呼ばれる六角佐々木氏は源平の争乱で功績により源頼朝によって佐々木定綱が近江守護職を命じられます。ちょうど鎌倉殿の時代ですね。つまりあの佐々木のじいさんの四人の孫のひとり……



そして六角氏は繖山(きぬがさやま、桑実寺がある山)に観音寺城を築き、近江を治めていきます。その六角氏の治める近江は主要街道が縦横に走り、集落や寺社、六角氏の配下が集まり、そこに市が立ったと考えられています。

桑実寺の反対側にそんなものが……


しかし信長により観音寺城は落城します。小幡商人たちは人を求め、安土城下へ、安土城落城後は八幡山城下へと賑わう場所を求め、拠点を移し、八幡商人が誕生します。

小幡出身の八幡商人で西村太郎左衛門という商人がいました。彼は角倉了以の朱印船で安南に渡ったものの、鎖国で帰れなくなったため、絵馬を描かせて郷里に届けさせたと伝わります。

ん?2日目に日牟禮八幡宮で寛永の年期と安南って書いてあったから珍しくて撮ったぞ……と思ったのですが……何故かデータがない!




ない!



くやしい


この左側にありました。



近世の近江商人は、販路と資本ができると江戸京都大阪などに出店を持ち、徳川御三家や有力寺社、村の領主に対し、貸付をします。村の領主からは米や大豆で返済をされることもありで、それらを使って醸造などで利益を出しました。

順番は違うけど角倉ですね。
角倉は京都に移り、酒造の利益を用い、土倉(金融業)で財を成したといわれます。


また、商人たちは寺子屋をサロンとし俳諧や立花、茶の湯などを嗜みました。また、経営が安定すると寺社への寄進や公共事業を行うことも商人たちにとって大切なことであったようです。


「売り手によし、買い手によし、世間によし」
三方よしという近江商人の心意気を表す言葉があります。


近世になると茶の湯等の教養や趣味は町衆にとってはむしろ当たり前だったかもしれません。ですが、了以は大堰川や高瀬川の開削をしたこと、与一は多くの古典を校訂し出版したことや社会のために尽くすことが家訓である角倉には、財を築くことだけではなく近江商人の精神が根付いているのかもしれません。


ほかにも興味深かったのが商人の一生です。
男性も女性も寺子屋→奉公→結婚なのですが、寺子屋では女性の方が学ぶべき量が多かったり、役割として丁稚奉公の採用や評価が仕事として大きく位置付けられていたり面白かったです。

あと流通では上方の古着を東北で売り、東北の海産物を干物にして上方で売っていたそうで、「経済ってこういうことよな……」と当たり前のことを思いました。なんか、すごい。


現代の近江商人は高島屋やワコールの社長がいるそうですね。



特別展


近江商人の卵たちはなにを学んだのか、カリキュラムがあることや個々のスピードに合わせて指導を行っていたこと、手紙を練習することで文字や教養を身につけていたことなどとても興味深かったです。

四書五経を学んでいたことや、一流商人の条件として文字の綺麗さが求められたことはやはり儒学者であり、能筆家でもあった与一を思い出しますね。



2階は中路融人記念館

山口華楊に師事した中路融人と弟子の今村市良の二人展。ふたりとも京都芸術大学などは出ておらず(近現代の四条派の系統としては珍しい?)、絵の仕事をしながら制作を行っていました。今村は中路のギャラリートークのあとに弟子入りをお願いしたそうですが、「晨鳥社の後輩を見ないといけないから」と断られたものの、共通の友人を通して会ううちに今村が絵を持っていくようになったそうです。


近江と画人の関わりは深く、近江八景など景勝地あり旧跡が豊かだからでしょうか。常設展示では竹内栖鳳や富岡鉄斎、塩川文麟が幕末の動乱を避けるために商家へ食客として滞在したこともあったそうです。また、野村文挙や邨松雲外は近江の商家出身ですね。




次は北上して角倉のルーツ愛知郡へ!


愛知郡豊郷町吉田


フィールドワークするときは歴史があるものであること、そして誰でも入れるのでとりあえず神社へ行きます。

愛知神社

室町時代に一度焼けたそうですが、再建はいつかわかりませんでした。


吉田城主 吉田冠者厳秀

吉田城主の名前が……!徳春以前の話はいっぱいいっぱいだったけどちょっと気になり始めたかも。とりあえず吉田城あとを探して歩く……!

与一の本で城跡のことが書いてあった気がするんですけど城跡が多すぎてどの城跡か全く見当がつかないし何のことだったかさっぱり忘れたので……もやもやするので帰って調べたい……


町並み保存地区なのかやたら雰囲気のある通り。


水田が豊かで大嘗祭の歴史が残るとか。


迷った記念に撮った交差点
ここどこ


Google先生のナビに従っても見つけられない……地図ではたどり着いているのにわたしはたどり着かない……なぜ……
 

これか?これなのか?


そらがあおいなあ


諦めかけたそのとき……いや、わたしは諦めませんが!諦めませんが!!酒蔵があったので暑かったし寄りました。旅行の楽しみ。

角倉のルーツで酒蔵があるなんて運命ですね!買うしかないな!暑さで沸いた頭で思いながらはちみつ梅酒を購入。金亀という名前の酒蔵で彦根城の山と同じで名前で井伊氏ゆかりのお酒です。レジのお姉さんに吉田城のことについて聞いてみると「すぐ裏の通りに石碑がありますよ」と教えていただきました。




この裏の駐車場みたいなところ一生懸命探してた


おおおおおあおおおおおおおあおおおおおあおおおおおおお角倉の名があるではないですかアア。


つまり

佐々木のじいさん秀義→六男坊厳秀→九代あとの孫が徳春→宗臨→宗忠→宗桂→了以→与一

という訳ですね。

基本的に観光地とかの解説はあまり信用してないのですがこれはうれしい。自分で史料追いたいです。何見たら載ってるんだろう。




少し吉田城周辺を散策して彦根城へ!




にんきもの


台風の影響でお昼から開館だったためか、予想していたよりは混雑していませんでした。

にゃん


まずは彦根城博物館へ。


特別展


全く分からない分野だけどわからない分野はわからないなりに楽しい。

星についての記録は藤原定家の『明月記』による超新星等の記録に遡ります。拗らせ貴族が矜恃だけで50年以上書き続けた定家が意図しなかった役立ち方をしていますね( )。

藤原定家は歌人として有名ですが、与一と同じように古典の研究や校訂を行っており、百人一首の原型となる和歌を選定し、装飾したといわれる別荘で晩年をすごしました。定家もとても好きなのです。


渋川春海の話も。

江戸前期に活躍した天文学者です。暦がずれているから中国の暦を輸入してズレを勉強して合わせたそうです……すごいなあ……うん……

『天地明察』読んでなければおそらく分からなかったと思いますが、星は陰陽師による占いや各地に暦があったことなど身近であるようで実はよく知らない繋がりを教えてくれます。



特別展を見たあとは所蔵品へ!


あれだ、武田の真似したやつ


雅楽、書状、刀剣なんでもあってたくさん写真を撮ったけど、昨年から能について勉強してるので能関連がよかったです。

神とか鬼とかのお面
泣いているお面 ちょっとめずらしい


流派によって使わないお面もあるそう。お面は主にシテ役(主役)が付けます。


唐織!うつくしい!

お面もですが、能装束は色によって年齢や役柄を判断します。


宗達は西陣織の出だという説もある

この装束は明るい色なので若い女性の役、かな。逆に壮年の女性は赤みのない色を着て年齢や役柄を表します。……勉強中です。



九谷焼移しな湖東焼

短い期間に作られた陶磁器は、製造過程や誰がどんな理由で作っていたか分からなくなってしまうことも。姫谷焼なんかもそうですね。


羽衣やってた


奥には18世紀に造られた能舞台。色んな流派の演目がダイジェストで観ることができたました。ほかのお客さんがいなかったのでチャンネル回してずっと観てた。葵上をいつか観たいです。


きゅうけい


斜め向かいにお茶へ席があったので吸い寄せられてしまいました。能装束や茶道具を見たあとにお茶が飲めるのはとてもいいですね。能舞台を見ながら飲めます。


絵画コーナーは狩野永岳がありました!彦根藩御用絵師だったのでいくつか観ることができるかなと思ってたのですがよかったー!

天橋立と松島


厳島じゃなくて天橋立なのがめずらしい。


拡大、松の描き方がとても四条派


花鳥図
葉の運筆がとても四条派

永岳は様々な流派を取り入れたのがよくわかる絵でした。



では国宝彦根城天守へ!

きょうも登山


彦根城

10分ほど登るとで着きます。

なんか角度がおかしい


国宝指定の天守は見どころがたくさん。
(それなのに列になって歩いていたのであんまり写真がないという)

ずっと満遍なく配置されている

天守へのぼって琵琶湖をちらっと眺めて降ります。

角度がおかしい


すごい急な階段でした。
落ちるかと思った。


本丸から


帰りは追手門を通ってみたかったので反対側へ。好奇心は仇となり、猛暑の中、堀を半周することに……


お掘


彦根城から15分ほど琵琶湖沿いにさざなみ街道を走り、長浜へ。

目的地へのアクセスがしやすいことと、駐車場とランドリーがあるので本日は宿をとってます。



いっかげつぶんのしょくひくらいした


近江牛〜

このために宿をとったと言っても過言ではない。長浜エールも苦さわやかで美味しかったです!

ありがとうおいしかった



さてあすはたくさん移動します!

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