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雪舟と



昨年は雪舟生誕600年ということで、旧山陽道を中心に雪舟関連の催しがたくさんありますね…!


雪舟と玉堂@岡山県立美術館

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行ってきました。

文人画の大家、玉堂は文人画展でそこそこ観ることができますし、岡山県美の常設にもよくいらっしゃいますが、雪舟と玉堂を一同に見ることのできる機会というのはとても貴重なのでは…と思います。特に岡山の地で開催することに意味のあるのふたりということで、岡山でこそ見る価値があると言えるでしょう…!

そして今回は作品の写真がありません…


雪舟について

雪舟は言わずと知れた室町時代の禅僧です。

拙宗等揚という、雪舟よりやや繊細な作風の画家がいました。彼は岡山県総社市に生まれ、臨済宗の宝福寺に入ります。後に地元を出て、京都・相国寺で画僧の周文に絵を学び、30代半ばで山口に移動して「雪舟」と号を改めます。雪舟は明に渡って夏珪などの水墨画を学び、大胆な作風を手に入れて日本に帰ってきます。

後述しますが、雪舟10代の宝福寺時代には涙でネズミを描いた伝承以外にほとんど史料が残っていません。また、拙宗=雪舟という説も決定的な史料はありませんが、賛者の重複などから定説となっており、初期と晩年の画風の違いも、雪舟が明へ渡り、実力をつけて帰ってきたと解釈されています。


浦上玉堂について

浦上玉堂は文人画の大家で、備中鴨方藩邸内で生まれました。なんと現在の岡山県美のある場所です。

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右側に見える建物が岡山県美です。当たり一体が城下町だったことが分かりますね。

玉堂は七弦琴を好み、詩を書き、書画を嗜み、儒学や医学にまでも精通していたにも関わらず、恥ずかしがって非専門家を強調していたという、とても文人らしい人でした。50歳で脱藩するまで、藩邸内での評価も高く、脱藩も穏便に役目をおりたと言われています。


2人は生きた時代こそ違えど、同じ岡山で生まれ、旅をした画家として共通点を持っています。

雪舟の絵は独特の水墨画表現に目がいきがちですが、実はセザンヌのような風景のキュビズムが感じられ、現実のデッサンからはかけ離れているなど、心象表現よりだというのが、実際に作品を目にしてよくわかりました。また、玉堂も楽しんで描くことを大事にしていたためか、絵に対する姿勢の根幹の部分がよく似ているように感じました。

今回は「山水長巻」や「恵可断臂図」の傑作を中心に、雪舟が影響を受けた中国の絵師や同時代の明の水墨画、雪舟の弟子の絵が見られます。


玉堂は之(ゆき)という七弦琴を弾く娘と、春琴、秋琴というふたりの息子がいました。父親の奔放さには少々劣りますが、息子たちも個性的な絵を描き、山陽グループの画壇や文人たちにとって、とても影響力のある存在でした。

また春琴は、幕末の志士たちに影響を与えた『日本外史』を書いた頼山陽の親友でもありました。今回の展示では、病床の山陽を見舞う、春琴の絵が出展されており、瀬戸内の文人たちの交流を感じることができました。





雪舟誕生の地へ

別日に雪舟の生まれた総社市へ。
雪舟と○○@吉備路文化館


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雪舟作品のレプリカとともに雪舟の生まれた総社の地域に関連のある作品を見ていく企画です。


雪舟と同じ総社市で生まれ、雪舟と同じ中国を旅した画家がもうひとり居ます。

満谷国四郎といい、太平洋画会などで主に洋画で活躍した画家ですが、日本画、水墨画とあらゆる作品を残しています。彼の水墨画を見る機会というのはそうそうないので、山を分けいって観てきました。

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どうやら裏から回ってしまったようだ。

周囲は風土記の丘となっており、古墳や鬼伝説の残る城跡がありましたが、時間の都合で雪舟のネズミの伝承の残る井山宝福寺へ。


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吉備路文化館から車で10分ほどで到着。雪舟が12-3歳で修行のために父に連れてこられたという井山宝福寺。ここには雪舟に関する有名な伝承が残っています。


宝福寺に連れられてきた雪舟は、経典に興味を示さず絵ばかりを描いており、業を煮やした住職に柱に縛られてしまいます。しかし雪舟は縛られたまま、自分の涙で足の指を使って描いたネズミ描き、その絵があまりにも上手かったため、住職もそれ以来雪舟が絵を描くことを咎めなかったというお話です。この話は伝承で、史料としては残っているものはなく、『本朝画史』の編纂に関わった黒川道祐が、存命中から評価の高かった雪舟の尾ヒレがついた噂を聞いたものと考えられています。

つまりフィクションとされていますが、雪舟の人生を辿るにあたってこの伝承は重要なヒントを教えてくれます。伝承のある宝福寺は臨済宗東福寺派の禅寺で、住職が東福寺の管長職に就くこともあったという地域有数の寺院でした。雪舟はその人脈を頼りに京都へ出たと考えられるかもしれません。また、雪舟と親交のあった了菴桂悟を始めとする僧たちは、東福寺周辺の人物が多いようです。

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雪舟が柱に縛りつけられたという方丈。当時の建物は、寺誌を始めとする史料とともに室町時代末期の備中兵乱で三重塔以外燃えてしまいました。「雪舟が縛られていた柱はどれだ」とよく聞かれるのだとか(笑)


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方丈の前にはなんだかかわいそうな雪舟とネズミ。

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お寺の前にも。


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備中兵乱で残った旧国宝の三重塔。現在は重文です。さすが晴れの国、岡山。気持ちの良い天気でした。


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仏殿の額。後水尾天皇天皇が書いたそうです。
(この地で宗達を感じることができるとは…!)


天井には雲龍図。

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誰が描いたか気になる…よ、読めない…備後に藤井松林という絵師がいたけど違うっぽい。いつの時代のものだろう。


次は問題の雪舟誕生の地へ。なぜ問題かと言うと、雪舟誕生の地はなんと2箇所あるんですね…

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1箇所目は入り損ねてしまいまして、車から撮りました。右端に街灯が見える辺にある黒い影です(小さい)

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2箇所目は昨年末に整備が終了し、とても綺麗になっていました!奥の碑の題字は徳富蘇峰でした。


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雪舟と陶板の国宝。ちょっとしたミュージアムがあり、室内でもレプリカの国宝や雪舟の生涯がざっくり楽しめます。

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柱に縛られて記念写真できるようです。足でネズミを描いてみるとか、総社ではいろいろやっていますね…


ちなみにこのふたつの誕生の地は目と鼻の先にあり、1箇所目は岡山市で2箇所は総社市となっているので、数十年、雪舟誕生の地を主張し合っているとか…宝福寺からは車で10分ほどです。

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川を挟むと市が変わる。


雪舟の誕生に関する資料は室町時代に2点あり(ややこしいので詳細は省きますが)、1つ目は「雲谷名等揚(雪舟)は吉備の国出身」、2つ目は「雪舟は備中の生まれで名は藤氏」とあります。このことから、雪舟は備中の生まれであることがわかります。

更に江戸時代前期に書かれた、『本朝画史』に「雪舟は(備中の)赤浜で誕生した」と記載されています。そして現代になってから「藤氏の法事が赤浜で行われた」と重玄寺の史料が見つかっています。

生まれた場所から宝福寺までの距離を考えると、修行場所として選ぶのに違和感がないですし(歩いて1時間ちょっと)、ランクとしてもちょうど良かった(辻褄が合う)そうです。



その他旧山陽道の雪舟の足跡

実は没地もはっきりしない雪舟。益田とか色々説があります。先述した重玄寺跡には、雪舟の墓のひとつがあり、雪舟終焉の地とされています。

こちらは候補の1つ、山口県の雲谷庵(復元)。雪舟が旧山陽道を行き来したことがわかって楽しいですね。

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雲谷庵は雪舟が「山水長巻」を描いたとされる場所です。雪舟画の再興を毛利輝元に命じられた雲谷等顔など、雲谷派の雪舟流継承者たちが使うことを許されました。

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瑠璃光寺を臨むことのできる見晴らしの良い場所でした。


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メモ書き。私は光琳よりも先に宗達に影響を受けたかもしれない雲谷等與が好きです…


さて、雪舟はどこで生まれ、どこで亡くなったのでしょうか。



現代中国画家・范曽


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そして最後に現代中国画家の范曽美術館へ行ってまいりました!閉館時間をチェックしていなくて、まさか16時だとは…15時に滑り込みました。(雪舟の気持ちになって歩きまわりすぎた)

岡山には夢二の美術館がありますが、夢二の蒐集家・松田基は、范曽の作品に惚れ込みました。松田基のコレクションは「柔の夢二、剛の范曽」なんて対比して表現されたりします。

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なんと1年に3日しか開館していないので、今年初めて予定を合わせて行くことが出来ました。

表情が豊かで、余白を活かした表現がとても印象的です。絵の具の濃淡を殆ど用いることなく、線画だけで人物に立体感を持たせられる画力の高さには、中国画の鬼才と呼ばれるのも納得です…しかも下描きをしないとか…表現から中国画の研究をしているのがよく分かりました。

松田基との交流から、自分の美術館のある岡山に敬意表して描かれた雪舟の絵なんかもあり、贅沢な時間でした。来年も行くか迷いますね…


雪舟庵という和菓子屋で雪舟最中を買ったので、今日は食べながら絵を描きます。



2021.2.27追記 毛利博物館(旧毛利家本邸)

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雲谷庵から車で30分程。毛利家本邸は下関にもありますが、こちらは防府です。毛利博物館は明治時代の建築で、邸内を見学でき、一部を展示室としています。

こちらでは毎秋に山水長巻が展示されており、今回雪舟・玉堂展で展示されたものは、毛利博物館所蔵です(展示時期以外はレプリカがあります)。山水長巻は山口の守護大名、大内政弘に献上したとされ、大内氏の滅亡後に毛利家の所有となったとされています。

国宝を含む重要文化財を約2万点所蔵している毛利博物館には、狩野派の作品を始めとする美術品や毛利元就が陣中で3人の息子に宛てて書いたと言われる直筆書状「三子教訓状」を見ることができました。戦国武将として人気の高い毛利元就ですが、「人を思ったより多く殺してしまったので、その報いがお前たちに向かなければよいと思う。最も自分に返ってくるなら仕方がないが」という言葉が印象に残っています。

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本邸に行くまでの道や庭園も見所のひとつです。邸内のお土産屋さんで名物の珈琲外郎を買って帰ってくださいね。

この周辺は明治維新関係の史跡、建物もたくさんありますので、戦国時代や幕末がお好きな方にもおすすめです。

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