見出し画像

鍋島茂治公 〜たっちゅうさん〜 第一章

第一章 タッチュウさんの墓

画像1

 塩田町久間に小高い丘がある。附近はこんもりと木が繁っている。その丘の上に俗にいう「タッチュウさんの墓」というのがある。一つの供養塔が由緒ありげに立てられている。正保二年三十三回忌と刻んである。すでに三一八年(昭和三十八年より)を経ているから、相当に旧いものであることが分かる。ただタッチュウさんの墓と呼ばれているだけで、どういういわれのものか、識者にも里人にも正確には、知られていなかった。
 さて、「タッチュウ」という文字は漢字では、(イ)館中、(ロ)館頭、(ハ)塔頭などと表現されよう。(イ)は、「タテチュウ」「タチチュウ」「タッチュウ」。小規模の城郭(邸宅・館)の連中、仲間。なお城郭や館の中(なか)の意味にとり「タッチュウさんの墓」を館の中(なか)の方の墓という意味にとれないだろうか。(ロ)は「タテチュウ」「タチチュウ」「タッチュウ」、館の長(おさ)、城郭の主領(多人数をひきいるもの)。(ハ)は「タフ(ゥ)チュウ」「タッチュウ」、古墓、墓地、仏閣などの意味として塔頭を考えてよかろう。
 ついては、塩田久間地方での書きならわし(漢字慣用)は、これら三つの中の(イ)だと承知しているので、館の中の方(茂治公)の墓、または館の仲間(連◉中)が共に切腹した因縁に関連がある表現として、(イ)は一応うなずけるし、尚又、「館中」の「中」は、(ロ)の「頭」にその音が通い、その様な点から、「頭」が「中」に置きかえられ、「館中」と表現されているのなら、(イ)は(ロ)の「館頭」を表現しているものと解釈されそうである。つまり、そう考えれば、(イ)は(ロ)と同じく館の主領の茂治公を意味するものと考えられよう。
 そのようなわけで、(イ)(ロ)は意味上接近しているものと考えられ、(ハ)は(イ)(ロ)とはいくらか意味上、へだたりがあるものと言えよう。(ハ)の意味の場合では、塔頭は禅宗の大寺の境内の小寺、脇寺または古墓、墓地などの意味で、あのタッチュウサンのはか附近にある(若しくは過去にあたった)お寺の墓(複数)という意味にとり、「タフ(ウ)チュウ(タッチュウ)さんの墓」と表現し、これがおのずから後世、久間城主鍋島茂治公父子供養塔の代名詞のかたちになったのではということも考えられないこともなかろう。また、以上の(イ)(ロ)(ハ)の他に、例えば、神代鍋島家四代崇就公(一雲公)の御舎弟、虎頭公を脱空さんとも言っているが、これに類するようなものが、茂治公の場合にもありはしないか。
 蓋し、何れにしても、今に言う「タッチュウさんの墓」と言うのは、久間(古記録には「久摩」ともあり)城主鍋島茂治公及其の家族を供養した。いわれのある塔である。このことについては、始めはわかっていたのであろうけれど、年を経るに従って、人も変わり、いい伝えも消え去って、今日では完くわからないものになってしまったのであろう。然し、研究調査という事は有難いもので、昭和三十六年夏、鍋島直共氏(長崎大学教授)がゆかりも深く発見されたのである。然も、氏が茂治公の後裔であることも、故人の縁であったろうと思う。
 塩田町久間にとっても由緒が分かってうれしいことであると共に、筆者も茂治公を研究していた時であって、是が非でも歴史的証拠を発見しようと必死になっていたので嬉びにたえない。筆者も長崎県神代村に茂治公の墓を発見したのが、昭和三十六年の正月であった。
 ◉し佐賀県に必らず何物かあるはずと自分でも決定づけていたので、今回の発見は郷土史上実に得がたい調査であったことを、郷土塩田町のために嬉ぶものである。タッチュウさんの墓が、久間城主茂治公の墓(供養塔)であったことは、塩田町にとっては、歴然たる史跡になったわけである。
 さて碑面を見ると、法名が次の如く刻んである。
妙法 清月蓮芳禅定門
(梵字)本照道雪大禅定門
妙法 高岩妙林禅定尼
   花性妙寿禅定尼
側面に 正保二年 三十三回忌
即ち、右四人の方の一大供養のために三十三年後の正保二年に三十三回忌の大法要を営んで、この供養塔をたてられたのであろう。この建てられた場所が、久間城の中心地であり、久間館の本境の地であったろうと思う。茂治公は悲壮な切腹をなされたのであるから、この地が即ち、公以下一門の大往生のゆかりの地であろうと考えられる。
 蓋し、あのタッチュウ(館中)さんの墓のある土地は、確かに茂治公に関係があると思う。あの高からず、低からずの高台の土地は館があった処だと思われる。供養塔を建てた人たちの意義もそこにあると思う。三十三回忌だから、子どもか孫の時代だから、そんな由緒は知っていた筈である。そう考えると、さきの「館中」「館頭」(または館柱)などは、ゆかり深い歴史的語彙と思える。
×       ×      ×
 さて話はもとの碑面にもどるが、四つの法名の内、子文献をしらべて符号するのは、
 本照道雪(鍋島助右ヱ門茂治公)花性妙寿(茂治公の御長女)
二つの法名は「鍋島家系図」並に佐賀で有名な「葉隠」等に明らかに記録してあるので間違いない。あとの二人の方の法名はどんな方か今のところ分らないが佐賀県を調査して廻れば分る時があると思う。然し、一応の推定だけはしておこう。
一番右が、   鍋島織部◉公(推定)
中二人が    鍋島茂治公
        同 奥方(推定)
一番左が茂治公の息女※
即ち中央に
茂治公御夫妻、両端に息子、息女を供養したものであろう。事件外の人を三十三回忌で供養する筈がない。然も茂治公のは、「大禅定門」として「大」を冠してあるので、茂治公が中心であるべきで、両側に息子息女を配したのであろう。
・・・・・
ここに於いて、塩田町の下久間にタッチュウさんと世人が呼んでいる主人公が、塩田久摩◉間の開発のための先賢者である鍋島助右エ門茂治公及その一門であるという歴史的証拠がハッキリした以上は、参詣するものをして或いは郷土人としてハッキリ認識の上に立って、歴史的回顧の誇りとして、豊かな郷土愛のために大いに顕彰すると共に心から冥福を祈りたい。今回、教育委員会に於いて其処に標識なども立て、その史蹟としての保存顕彰に依り、永く郷土の心のたよりにされるという。洵(まこと)に当を得た、ふさわしい文化行事だと思う。
・・・
面に表われた歴史はともかく、裏に埋もれた歴史は表に出して明らかにする必要がある。これは後世の者の務めであると思う。ことに痛感することは、徒らに観光ブーム、レジャーブームに押され、各地を見て廻るけれど、遊楽的に皮相的にながめる傾向にあることである。我等はここに於いて、昔を思い、故をたずね、歴史をさぐり、由緒の分かったものはハッキリ、その郷土のほこりとして、永く後世に残して行くべきであって、更に外にある埋った史跡を次ぎ次ぎに探求して行くのも、後世人の学問的義務でもある。
・・・・・・・・
 以下、筆者は久間城主であった茂治公の歴史を記し、一門と共に悲壮な死を遂げられた物語を述べ、共に又、当時の勢力把握の一つの手段があえてなされたという歴史の谷間も述べて見よう。
 先ず、茂治公の父、信房公より述べて見よう。

【注】
※(1)古文には久摩ともあり。
※(2)一六四五年
※(3)三十三回忌前は慶長十八年に当たる。
※(4)墓石には、元和二年三月十三日と刻んであるので、三回忌に当たる年である。然し、十月の死去を三月と刻んである。
※(5)タッチュウさんの墓の現場調査は、小田寛雄氏・鍋島直共氏等の調査による。
※(6)一六四五年
※(7)慶長十八年より三十三回忌の意。
※(8)本照道雪・本昭道雪・天心宗然
※(9)茂治公の長男で一緒に切腹された。葉隠及系図には、法名「理山道義」。事件のあった人の法名は別名有り。茂治公も別名は「天心宗然」である。
※(10)事件の本人茂治公の息女で、織部允の姉か、妹か。多分姉と思われる。古文には長女とある。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?