三月九日

悲しいニュースだったのだろうか。ある女性が街頭インタビューでこんなことを言っていたと、母から聞いた。

「大好きな人が結婚を発表したんです!」

あるアイドルが結婚した。女性はそのアイドルのファンだったという。「愛してるぜ!」と多くのファンに呼びかけていたアイドルが、たったひとりの人に一生の愛を伝えた悲しみなのだろうか。祝福心もあるだろうが、結婚は身近な人が遠くへ行ってしまう寂しさもある気がする。
同じ日の夜に私は、遠くへ行ってしまったあの人へ思いを馳せることになる。彼女の言葉を借りて言わせていただく。

「大好きな人が亡くなったんです……。」

直秀が亡くなった。正式には殺された。道長が住む邸で捕まり、予告で見せたあの表情のあとには刺されてしまうのではと私の胸を苦しませた彼は死んでしまった。刺されずに、殺される描写はなかったけれど、まひろと道長が発見したその姿はなんと酷いことか。ふたりが葬り、弔う姿にその死を信じられなかった私も、知らぬ間に涙が滲み出ていたことに放送後に気づいた。

放送後に感じた喪失感は、流行りのなんとかロスでは済むものではなかった。月曜日はまだ死を信じられず、火曜日も本当にいなくなっちゃったのかと思うと強い喪失感が蘇る。次の放送にはもう直秀はいないと水曜日に気づけば、木曜日には再放送中の『まんぷく』の録画を観て「こんなにも直秀は(森本さんだってわかってるが、同じ毎熊さんが演じているので)元気なのに……!」と悔しさを滲ませた。そんなまだ喪失感の海に溺れている状態だけど、覚悟を持って次回の放送を観ようと決めた金曜日。そして、土曜日は出かけてしまうからと、遠い国へ逝ってしまった直秀が生きていたことを忘れぬために再放送を録画した。

オリジナルキャラクターとはいえ大河ドラマだ。フィクションいえど多くは史実という現実が元になっているからか、コメディやファンタジーの空気が纏われていても、伝説が物語の中に入り込んでも不老長寿で永遠に生きる者は登場人物には出てきていない。だから、いつかは死ぬ。されど、その時が予期していた時よりも早すぎた。
もう少しまひろと道長を見守るだろう。ここで別れることになっても、再び「呼んだ?」の如くふたりの前に現れるだろう。「心配したんだから!」と叫ぶまひろ、「泣いてんのか?」「……泣いてねーよ。目に砂が入って」「そんな芝居染みたことをよく芸人の前で言えるな」と茶化し合う直秀と道長が笑い合って画面に映る。そんなことを考えていた。そんなクッションはなく、私たちの前から直秀はいなくなったてしまった。

インタビュー記事に大石さんはこんなにも直秀が魅力的になるなら登場を増やせば良かったと言っていたのだが、同時に死なないと物語は進まないのでとも言っていた。その死が、まひろと道長がのちになるソウルメイトの意味が少し本意を見せ始めた気がする。
お互いにガッツポーズをし、ハイタッチするようなソウルメイトではなく、罪を共有し合う共犯者のような真綿で互いの首を絞め合うような関係になるのだろうか。そこに今は愛があれど、『光る君へ』展で見たあらすじにはまひろが道長へ抱く憎悪の文字があった。直秀の死が今後のそれぞれのふたりの行く末に影響を与えるだけではなく、今の関係が変わりゆくスイッチなのだとしたら、私たちはこの死を受け入れて観ていくしかないのである。そして、直秀のことは忘れてはいけないのだと。

しかし、そんなふうに頭に刻まなくても直秀のことなど忘れることができるはずがない。捕まってしまってから心配した1週間、さらに亡くなってからの喪失の1週間と2週にわたり直秀のことが頭から離れなかったわけではない。捕まる前に腕の傷が道長に見つかってからの1週間、さらにその前には腕の傷のきっかけとなる直秀たち散楽が義賊として盗みに入って立ち去る際に道長が放った矢が直秀の腕に刺さったことで正体がバレてしまったのではないかと心配し、怪我の具合などを不安に思ったものだ。そして、その間にまひろに都から離れる話をする直秀の表情にときめいたり、そもそも登場したときからどこか掴めぬキャラクターだけどその存在に惹かれたりしたことも事実なのだ。
直秀は当て馬だったかもしれない。けれど、最後に自ら離れるのではなく3人腕を組んで歩んでいき、時に後ろから直秀はまひろと道長を見守っていくだろう。そんな存在だと思っていたから、想像以上に早い別れに驚きを隠せない。同時に、自分が思っている以上に直秀のことが好きだったのだと、最期を見届けて思ったのだ。

ただ悲しいだけではなく、こんなにも好きだったがゆえに寂しいと思ってしまう。それが虚像のような偶像だとしても、好いてしまったがゆえの性なのかもしれない。だから、いなくなってしまっても私は彼を抱きしめて『光る君へ』をまた日曜日に観るのだろう。
月曜日が来るから日曜日が辛いのではない。夜には直秀がいないことを知ってしまうから日曜日が辛いのだ。それでも物語を始めるために、その物語の中にはきっと直秀がいると信じて見届けよう。




『光る君へ』の直秀のことを書いて投稿しようと思っていました。しかし、悲しいことは奇しくも続いてしまいました。
TARAKOさんが亡くなりました。

TARAKOさんと言えば『ちびまる子ちゃん』です。主人公さくらももこ、通称まる子、まるちゃんの声という魂を宿している方です。
私にとってまるちゃんは憧れであり、尊敬する人で名前を挙げている人物でした。そう言うと
「さくらももこじゃないの?」
と言われることがあります。確かにまるちゃんはさくらももこです。しかし、自叙伝のようなところはあるけれど、まるちゃんは大人になったさくらももこが描いた人物。基本的にアニメのまるちゃんで育った私が抱いた印象として、さくらももこであってもそのリアルを含んだフィクションになったのがまるちゃんなのだと思っていたので、やはりまるちゃんとさくらももこはどこか別人なんだと思ってました。

まるちゃんを尊敬する理由に、まるでわがままなように自分道を行っているけれど、モノローグなどを聞いていると第三者の俯瞰した目を持っているとある時思ったからです。そのきっかけは学生時代の友人なのですが、その友人がまるちゃんに性格が似ているとなんとなく感じてよく考えてまるちゃんを観ていたら、そんな人物像に気づいたからです。
そんな小学生はなかなかいません。それを生み出せたさくらももこは凄いなと思うのですが、そんな小学生を大人ぶらずに子どもらしく存在している。まるちゃんは存在している。そんな気にさせてくれたアニメの影響が大きいです。動いているし、話している。なおかつ生まれたときからずっと日曜日になれば会える友だちだったから。

アニメは子どもが観るものという考えは昔ほど減りましたが、それでもどこかでまだ大人がアニメを観ることにマイナスなイメージがあった頃でもまるちゃんはテレビ越しに会えました。まるちゃんの年齢を超えても、家族に揶揄を言われることなく観ることができました。
直接挨拶はできなくても、30分話を聞くことができました。時にはスペシャルだからと1時間お話を聞いたことがありましたね。確かにまるちゃんは存在しているんです。

朝食をこれから食べようとして茶碗にご飯をよそうとき、母がまるでご飯のお供を思い出したかのようにTARAKOさんの訃報を伝えました。ネットに出ていたと。確かにたらこは焼きたらこでも生たらこでも明太子でも美味しいけれど、そこで思い出したかのように訃報を言うんじゃないよと内心思いました。それに、ネットは本当かわからないじゃないかと。
しかし、気になって電車に乗った時にスマホを開けば通知にTARAKOさんの訃報のニュースがありました。公式に発表されていると知りました。著名人もコメントを発表していました。
帰宅後、パズルの最後のピースを埋めるかのようにニュース番組を見る。その訃報がトップニュースになっていました。

今も信じられません。御冥福をお祈り申し上げます。

信じられないから、ただその言葉を並べて理解しようとしている自分がいます。TARAKOさんが亡くなってもきっとアニメは続く。長寿のアニメはそうだもの。まるちゃんはいなくなったわけじゃないと三谷幸喜は言っていたもん。そうだよ。さくらももこが亡くなっても事実続いているじゃないか。
だけど、魂が遠くに行ってしまった。そんな気がしてしまうのです。大丈夫、新たな魂も受け入れられるよ。きっと根幹は変わらずにいてくれるよ。『ちびまる子ちゃん』の世界はちょっとやそっとじゃ廃れないよ。そんなふうに今自分で自分の鱗をなだめているような気がしています。

TARAKOさんはまるちゃんの印象が私の中でも強いのですが、ナレーションとして番組を彩っていた印象もあります。その中に『心ゆさぶれ!先輩ROCK YOU』という番組がありました。ざっくり言えばいろんな業界の方がゲストとして毎回登場し、経験談や裏話を話す番組です。その番組のナレーションがTARAKOさんでした。
私たちと同じ目線で驚いたり、学んだりするようなあのナレーション。もしかしたらまるちゃんと肩を並べて同じような話を聞いている体験をしていたのかもしれませんが、新たな世界を知る面白さを遠巻きにながらに感じていました。

人生を彩る時間にTARAKOさんは存在していました。その感謝を忘れることはありません。だからこそ、まだ彩りを出してくれるのだと思っていたから、信じられないのかもしれません。
私が年齢を重ねてもまるちゃんは永遠に年を取らずにいるから。永遠の存在なんてわからないのに……。


それでも日曜日はやってきた。やってきてしまった。
『ちびまる子ちゃん』ではこの訃報を受けて、アニメでもお知らせが出るでしょう。
回想で登場しても、『光る君へ』で新たな直秀が出ることはない。
そんな日曜日はやって来ます。やって来てしまいました。怖いです。月曜日が迫ってくることよりも怖いです。

されど時間は過ぎていく。私たちは生きていかなければならない。抗いたくても、雑踏の中で綺麗に立ち止まり続けることは難しい。進むしかないのだ。傷ついても進んでいけば、治療する機会に出会えるかもしれない。立ち止まったままなら、傷が傷を抉り始めてしまう。
傷つきながら進むことは苦しいけれど、時に休みながらでもいいよね。その時に目を閉じて思い出すのです。あの歌の歌詞のように。

瞳を閉じればあなたが
瞼の裏にいることで
どれほど強くなれたでしょう

あなたにとって私も、と続くことはもう難しい。けれど、あなたに会えたときに頷いてもらえる存在になれるように。
新たなあなたにとって、私がそんな存在になれるように。

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