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悪い人も批判しちゃいけない理由

こんにちは、エイです。

先日、こんな感じのツイートを見かけました。

「映画の中で展開が盛り上がるからって、女性を傷つけたり殺したりするの、やめて。そういう映画には、かたっぱしから低評価つけてやる」

これは、とあるフェミニストの方がツイートされたようです。

フェミニストというのは、一般的に女性の権利拡大を主張する人、もしくは男女平等主義の人、性別や人種などで差別をしない人、などのことを指すようです。


ちなみに私自身、書いている小説の中で「盛り上がるから」と登場人物の死亡シーンを入れるのは日常茶飯事なので、そこについては大変申し訳ないというか、なんというか……いたたまれない気持ちなのですが。

そこはひとまず置いておいて。

このツイート、反対意見などでファボ(いいね)よりリプライ(返信)が圧倒的に多かったようです。

男女平等主義の人が女性を擁護する意見を言う。

何もおかしなことはありません。

でもたしかに、何か嫌な気持ちになることは否めません。

なぜでしょう。


誰かを守るための強い言葉でも、
相手を傷つけることができる

悪者を主人公が倒すような、特撮や子供アニメをみていると、「悪者はヒーローが倒して当然」と思ってしまいます。

だから、私たちは時々忘れてしまいます。

例え相手が悪者だとしても、ヒーローの拳は確実に相手を傷つけている、ということを。


このツイートも同じように、「女性を傷つける描写をする映画」という悪を「低評価をつけてやる!」という言葉で攻撃しています。

「女性を傷つける描写をする映画」に関係する人、作った人や関わった人全てを傷つける言葉です。


フィクションの「悪者」は「悪役」として
作られた気高い存在

ちなみに、特撮やアニメ、それこそ映画の中には、監督や脚本家が「悪役」として作るキャラクターが存在します。

彼らは、「悪役」として作られているので、批判されたたり憎まれたり倒されたりすることを、むしろ誇りとしている、かもしれません。

近年のディズニー・ヴィランズ(ディズニーの悪者)ブームなんかでも、「悪役」だからこその気高さが、返って人気を呼んでいるのがわかりますよね。


現実はどうでしょう。

現実の人間には、「悪役」として生まれた人間はいません。

もちろん、「ヒーロー」として生まれた人間もいないんです。

「悪役」「ヒーロー」を定める監督や脚本家もいません。


その正義は、本当に正義ですか?

自分の正義の鉄槌で、悪者を批判したり撃ち倒したりする。

とてもかっこいい行為に見えます。

しかし、その正義は、だれにとっての正義なのでしょうか。

監督も脚本家もいない現実の世界で、ヒーローと悪者を決める存在はいません。

世間の声、と答える方もいらっしゃるかもしれませんが、世間という曖昧な集団の意見は、簡単に左右される、とても脆いものです。


何の基準もない中で、誰か一人を「悪役」と決めつけ、攻撃し、撃ち倒したら、その人はなんと呼ばれるでしょう。

そう、悪者です。


誰かを批判するのなら、
自分が悪者になる可能性を思い出して

多くの人が、誰かを悪役にして、ヒーローになろうとしています。

誹謗中傷や、炎上が起こるのは、これが原因ではないかと思います。


もし、誰かを悪だと考え、批判したいと思ったとき、自分をヒーローだと信じ切っていたら……自己陶酔としか言いようがありません。

自己陶酔自体は悪いことではありませんが、「私は間違ってない! お前たちがみんな悪い!」と叫び返したら、ますますダークサイドに身を落としてしまいます。


強い主張をする人のツイートは、確かに心に刺さります。

だけど同時に、刺さった先から誰かの心の血が流れることを、どうか忘れないでいたいものです。



私はあんまり自信がありませんが……皆さんは、知らず知らずのうちに悪者になっていませんか?


エイでした。

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