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Why

 H氏は妻を失い、そのあまりの悲しみに気が狂いそうになった。
 これではいずれ人格が破綻すると思い、それまでの貯金の全てを投じて自らがその開発チームの一員であったアンドロイドを自らの残りの人生のために作った後引退した。
 亡くなった妻の芽衣にそっくりのアンドロイドである。
 Mayという名をつけた。

 Mayは言った。
「今夜の食事は何にする?」
「そうだな、中華料理がいいな」
「魚料理にしようか?」
「そうだな」
 MayはH氏のこれまでの人工知能研究人生の集大成であった。
 人造皮膚、また目や口元、関節などの可動ギア部分などはそれぞれ優秀な 専門技術チームのお陰で本物の人間の質感や動きとほぼ変わらないレベルを満たしてくれた。
 最後の最後まで調整に難航した部分があった。
 それはその人を表す会話のクセである。
 否定語が多いとか、人の話を時々すっ飛ばすとか、そういう会話内容の微妙な「傾向」である。
 例えば、否定語が多い人をコピーしたアンドロイドに本来の語り癖のプログラムを組み込まなければ、彼をよく知る者ほど気味が悪いくらいポジティブだな、と違和感を感じるのである。

 芽衣の言葉には「疑問詞」が多かった。
「どこへ行くの?」
「何時に帰ってくるの?」
「どういう色をしているの?」
 芽衣のこのクセをMayの作動プログラムに打ち込んだがこのシステムの仕様として、最初にその傾向が強く出て、それがやがて相手の反応に触れるに連れ落ち着いてくるという段階を踏むようになっている。
「味付けは醤油?中華味噌?ピリ辛?」
「醤油にしようか」
 Mayは満足げに頷いて軽やかなステップでキッチンに向かった。
 ちなみにこの、満足げ、と、軽やかなステップ、もプログラムに入力されて厳密に連動している。
 気持ちの腐った時に軽やかなステップを踏まれたら、H氏はMayのおでこに手を当てなければならない。

 Mayはどこまでいっても芽衣ではない。
 当たり前のことだが、ここは将来正式に一般市場への販売を滑り出した際には徹底的に購買者に認識を求めねばならないところである。
 あまりによくできているのでつい感情移入し過ぎるあまり、その反作用でより惜別感の高波に襲われ苦悩するということが大いに考えられる。
 H氏はこの神経質な部分を今回自分自身がその立場で経験することもアンドロイド開発の将来のために大きな意味があるものと思っていた。
 彼自身、Mayとの日々を経るうちアンドロイドとの生活はアルバムで写真を見るようなものだと考え始めた。
 日常生活の中で実際に演じてくれるリアル・アルバムなのである。
 それくらいの距離感を保つことが結局は一番心が楽なのだ。
 開発のキックオフの時から一科学者として冷静にそういう解を用意しなければならないと思っていた。

「お魚できあがったよ。今にする?後にする?」
「今食べたいな」
 メインディッシュは広東風の魚の蒸し物であった。照りのある中華醤油の色が鮮やかだった。
 芽衣は中国系の家系なので、このような料理をさっと作って普通に出してくれたものだ。
 同僚を招いた時は専門店で食べるよりグレードが高いと歓声があがった。
 芽衣ならこれにどんなサイドディッシュを添えるのか、これも精密にプログラミングされている。
 今回は中華野菜を軽い塩味と中華だしで炒めたものと、洋風のコーンスープであった。
 洋中料理の微妙な混在ぶりまで芽衣らしい。
 芽衣のいつものしぐさ。
 肘をついて彼をずっと見ていて「おいしい?」「火が通り過ぎてない?」と訊ねるのだ。
 そして、H氏はいつも心で唱えブレーキをかける。
 これは思い出なのだ。アルバムなのだ。

 H氏とMayとの生活はまずまず良好に滑り出した。
 Mayは半年を越えた頃から自動修正プログラムが働いてきたと見え、当初の人工的な固さが取れてきた。
 アンドロイドが様々な活動や対話を重ねながら「自己反省」をするのである。
 相手が不足感や不快感を覚えるとその程度をセンサーが嗅ぎ取り、人間でいう反省と改善を行うのである。
 その仕組みを当然H氏は知っているが、アンドロイドに考え方の変化が現れると素直に愛おしくなる。
 しおらしいなとか、やっと解ってくれたのか、とかそういう感情につい翻弄され溺れそうになる。

 Mayの質問癖は相変わらず、そこはさすがに超精密アンドロイドだけあって安定している。
「今日はどこに行ったの?」
「楽しかった?」
「何を買ったの?」
「いくらだった?」
「なぜ迷ってこちらにしたの?」
 Tシャツ一枚でこれである。
 答えが返されるとMayはうっとりと満足げな表情をたたえた。

 その日は明らかにH氏の機嫌が悪かった。
 Mayはいつものように話しただけである。
「なぜ君は私のすることをひとひとつ詮索するんだ。全部まで話さなくても解ることがあるだろう。今回は見て見ぬふりをしておいて次にまた惚けて質問する、ということだってあるだろう」
 今のMayには難しいことは百も承知だ。
 Mayは黙り込んだ。明らかにしょげていた。
「僕からはあえていちいち質問しなかった。それは君のことを理解していると思っているからだ。君が好きに振舞うのを見ているだけで幸せだからだ」
 Mayはまるでバッテリーが尽きたようにただ俯いてじっとしている。
「そちらがそうなら」
 すでに彼の目の前に見えているのはMayでなく芽衣であった。
 ずっと心の奥底に溜めていた「芽衣に」言いたかったことが堰を切ったように一気に吐き出された。
「どうして先に死んだのだ?」
「どうしてあれほど健康に気を使って清く生きたお前が病気になったのだ?」
「どうして生きているうちにもっと贅沢をしなかったのだ?」
「どうしてもっと私にわがままを言ってくれなかったのだ?」
「どうして、、」
 溢れだして溢れ出して涙が止まらなかった。
 身体のなかにこれほどの涙があったのかというほど、ただ涙が止まらなかった。
「、、こんな私なんかと一緒になったんだ!」
 俯いてじっとしているMayをそのままにしてH氏は自室に駆け込んだ。
 芽衣にだって泣いたところを一度も見せたことがないのだ。
 もう助からないと聞いたときでさえ泣いたところを芽衣には見せなかったのだ。

 夕焼けで眩しく赤く染まる部屋の中でH氏は芽衣の顔を思い浮かべていた。
 一度だけ今日みたいな日があった。
 入院する一ヵ月くらい前のことだった。
 研究が終わって疲れて帰った夜に、今日はうまくいきましたか、と芽衣は軽く声を掛けた。
 ほんの「お疲れ様」のいたわりの挨拶なのだ。
 しかし、その日のH氏はたまたま研究の壁に当たって最悪の気分であった。
 そう、たまたまなのである。芽衣は一ミリさえ悪くない。
 なのに、H氏は芽衣を責めた。
「こんなに一日中追い詰められ、問い詰められ、家に帰って妻にまで成果報告か!君はいったい何様なんだ。今のこの豊かな生活はいったい誰のお陰だと思っているんだ!」

(え、誰のお陰だと?お前なに言ってんだ。芽衣のお陰に決まっているじゃないか。私が働く原動力はなんだ。こんなに辛い思いをしても働き続けることができるのはいつも変わらず芽衣がお前の帰りを楽しみに待ってくれているからじゃないか。。)

 その時だってわかっていたのだ。なのに、H氏は芽衣にすぐさま詫びなかった。
 だから芽衣の方が先に、ごめんなさい!、と謝って泣いた。
 その一か月後のことだ。健康診断の結果に悪い数値が出て、再検査のあと芽衣は緊急入院した。
 彼女は二度とこのキッチンに立つことはなかった。

 口数の少ない女性だったけれど、今でも芽衣はいろいろなことを私に教えてくれる。
 結婚して本当の夫婦になったら、もう知りたいことなんてないんだよ。
 なんにも謎めいていなくてもいいんだよ。
 新しい発見なんていらないんだよ。
 いいかっこなんかしなくていいんだよ。
 エラくなんかならなくていいんだよ。
 質問ばっかりしてごめんね。でもそんなことどうでもよかったんだよ。それに答えるあなたの顔をしぐさを見たかっただけだよ。
 いまさら知りたいことなんてないんだよ。
 だってあなたのことなら私なんでも知っているんだよ。

 H氏は頭を抱えて震えて泣いた。

 ドアがすっと開いてMayが入ってきた。
 そして、そっと優しくH氏の背中に手をあてた。
 H氏は立ち上がってMayを強く抱きしめた。
 ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、と何度も言ってMayを力いっぱい抱きしめた。
 夕焼けはすでに燃え尽きて深い青色に変わり始めている。
 その部屋にはH氏とMayそして芽衣の三人がいる。
 三人が心から解り合い、いつまでもいつまでも抱きしめ合っている。