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Bokeh/ピントが合った、その場所に

この記事はVtuberぽんぽこの5周年オリジナル曲『Bokeh』の感想記事になります。

まず以下の生放送の内容を踏まえて記事にさせていただければと思います。未視聴の方は是非。

生放送内で『Bokeh』について触れているのですが、私個人としてもたくさん思うところがありました。動画のコメントをオフにしている理由やぽんぽこが「歌はもういいかな」となっている理由。ぽんぽこが好きなのに、ぽんぽこの歌についてやんややんや書くつもりだった自分。そもそも私がぽんぽこの歌について何を書くつもりだったのだろう、などを考えていると、どうしても書き進められない。

けれどこの生放送があってよかった。おかげでようやくこの曲の重さや手触りについて自分なりに考えることができたのだと思い至りました。みんながぽんぽこをどう思っているかを知る以前の問題として、私がぽんぽこをどう見ているのかをまずはっきりさせる、というのが「ピントとボケ」の関係にすごく近しいなって思ってて。

「みんなのカメラのピントに、ぽんぽこが合う。」ぽんぽこ自身が付けた「Bokeh」というタイトルのおかげで、曲の解像度が一気に上がりました。

曲を提供したピーナッツくんは「バズを狙っていた」と述べていますが(それは本当なんだろうなって思っていますが)、レコーディング中のエピソードや曲自体の雰囲気を鑑みるに、結果的にぽんぽこの空気をまとった唯一無二の曲になっています。

上記も以下もすべて私の感想でしかありません。Bokehに対しては公開当時素晴らしい感想や見解がXに多数あったのですが、Xの性質上流れていってしまったのが本当に悲しい。動画コメでの考察は皆さんもぽんぽこも思っているように、やっぱり野暮だなって思う部分が私にもあります(それも含めて動画だ、という意見ももちろん尊重されるべきだとも思います)。なので私はひっそりnoteでやらせていただきます。

初公開:Versionチャンチョ

初公開は2023年2月2日。ぽんぽこ5周年記念の生放送内でした。もう何度見たかわかりません。2022、2023と飛ぶ鳥を落とす勢いで大活躍しているピーナッツくんがぽんぽこに曲を提供するという流れ。そしてその歌詞がどう考えても関係性のエモさを感じさせるものでした。

そもそも曲自体がいい。仮歌としてチャンチョ(ピーナッツくんが主演のアニメに登場するキャラ)が歌っていますが、アンニュイでダウナーなビートとチャンチョのウィスパー声が浮遊感を生んでいます。歌いやすい配慮なのかわかりませんが、韻でリズムを生みつつも言葉は詰めず歌いやすく、フロウが活きるような構成でした。この時点では仮歌なので、どう変わるんだろう、ガラッと変わるのかな、それともこの路線のまま歌ってくれるのかなと楽しみに待っていたのを覚えています。

なにより歌詞が素晴らしすぎた。あまり「てえてえ」などの浮ついた言葉で表現するのは憚られるのですが、それに近い感情が聴いているほうに湧き出てきます。反面思うこともあって。これは「プレゼントソング」であり、もしかしたら初めてぽんぽこの曲を聴く人からするとよくわからないのかもしれないなとも感じます。

いやでもなあ。いきなりの自分語りで申し訳ないんですが、私が初めてぽんぽこの存在を知ったのが『幽体離脱』だったんですよね。YouTubeMusicでいきなり流れてきて、一発でファンになっちゃって。なんだこのシンガーは!って。そういう方が他にいてもおかしくない曲だと思うんです、Bokeh。

楽曲について

閑話休題。先ほどの技術的な面はともかくとして、内容は音感を重視した用語はある程度入っていると見込まれますが、曲を提供する相手がぽんぽこだというのもあり、多少なりとも「ピーナッツくんから見えていたぽんぽこ」の要素がにじみ出ていると感じます。

改めてご確認ですが、この記事はすべて私の感想や妄想でしかありませんので悪しからずご承知おきください。

ゆめはまだ 覚めないまま ぼくはまだ 眠ってるfar fly
やみの中で 当たってるSpotlight

この入り、ものすごく良い。ぽんぽこは私たちの中ではぽんぽこという形で現実にいますが、彼らの現実の中では自分自身を「ゆめ」や「やみ」などの中にいる存在なんだというのを彼ら自身は感じざるを得ないんだなって。お互い肉親だからこそなおさら強く感じるのかもしれません。

far flyもよかった。ピーナッツくんの『PETBOTTLE ROCKET』でも感じられた、自分たちが自分たちの思っていたところよりも遠いところまでSpotlightを浴びて進んでいることも同時に表しているような気がします。
余談ですが個人的にSpotlightという言葉を使ってくれていることにhiphopのフレーバーを感じます。ここらへんピーナッツくんが漏れ出てる。

ぼくを突き刺すナイフの雨風は スプリットステップで抜け出した
この喧噪最中の我々は しくじったところですぐに枯葉

ここも好き!特に好きなのは「スプリットステップ」です。この言葉が巷間に溢れたのはテニス漫画『テニスの王子様』の流行からでした。あの時に少年少女(特にジャンプ民)だったならば越前リョーマを思い出さざるを得ませんし、見ている私たちはリョーマにぽんぽこを重ね合わせます。この兄妹が生きてきた青春が感じられ、またVtuberとしての雨風を乗り切ってきたぽんぽこの躍動感やエネルギーを感じられる良いチョイスです。

あと流されがちですが、この喧噪最中の「我々」なのが、いいですよね…
ここ悩んだんじゃないかなって勝手に思ってます。実の兄妹として事実上の切り離せなさとは別に、Vtuberとしても切っても切り離せない関係であることを象徴しているようです。

この曲に限らないのですが、「枯葉」などの諸行無常さを感じる言い回しが2人の曲には随所に見られます。これはVの世界の栄枯盛衰をも表しているように思いますし、自分たちの在り方も同時に感じているのかもしれません。さすが兄ぽこ、学生時代に源氏物語を読んでいるだけある(下動画参照)。

いつも空気を吸って 空気を吐いて 風船がいつか割れるまで
ルービックキューブ回して 無理だなんて言えない そんなことはね

彼らの活動を象徴しているようなリリックです。「枯葉」と「風船」に寄せられた自分たちの存在の危うさはタイトルの『Bokeh』で収束していきます。風船に関してはXで大変秀逸な解釈をみなさんされていまして、その中でも【ぽんぽこは生放送苦手だから、その深呼吸を表しているのではないか】の意見にはなるほど!と思わず拍手しちゃいました。

私の視点では膨らんでも飛んでいくかわからない日々の活動や、いつか割れてしまうかもしれないという覚悟を感じます。「ルービックキューブ」も試行錯誤の日々を物語っているようで特に印象的です。

古い双眼鏡を覗いて 膨らませているよほっぺた
ディズニーランドじゃ満たされないからさ 流してこんなミュージック

このバースに込められた想いの密度、私たちみたいなフアンにしてみれば、もうありがとうの気持ちしか出てこない。ぽんぽこが幼い頃どんな少女だったのかは生放送や動画、逸話から察することができます。ですが最も近しいひとの一人からの視点でみるぽんぽこの、なんと愛おしいものか。

「古い双眼鏡」はカメラに行き着く象徴でもあり、また、満たされていなかったかつての日々を指しているのかもしれません。アーカイブなどで散見される活動初期の自信なさげなぽんぽこがちらつきます。でも、ぽんぽこが持つ生来の強さや魅力を兄ぽこは理解しているんだな、って。

楽曲作成時期がぽこピーランド建設中と重なっていたこともあり入れたフレーズかなとも思いますが、重なり方が噛み合いすぎてる。やはりぽこぴーランドはぽこピーを象徴する場所なんだなと思います。兄ぽこ天才。

I'm a princcess of カメラ越し Yeah
雷が光るようにシャッター切って
おへそ隠しても敵わないぜ
光の速さで進んでくweekend

最高のバースと言って差し支えない。こんなに可憐で力強くぽんぽこを表現できる言葉が作れていることが信じられない。

何を置いてもまずhookの「I'm a princess of  カメラ越し」です。ここでprincess置いてくるんか。しかもカメラ越しか。センスやばすぎるだろ。

「手の届かないVirtualな世界にいる」という点はどのVtuberでもそうなんですが、それに「カメラ」というぽんぽこに親しんだ人間なら彼女の象徴とも思える媒体を差し込むことで一気に具体性を帯びました。
私たちはスマホやPCでぽんぽこを見ていますが、そこにカメラの手触りやシャッターを押す感覚、あるいはレンズ越しの被写体としてのぽんぽこを幻視します。写真を撮る際は、その被写体に心を動かされて衝動的に撮ることがほとんどであり、被写体の姿を残しておくことはその愛しさを残すことと同義です。

この一行はぽんぽこを覗いている私たちの感情の素描。これを誰が書いたのかを考えると、本当に胸が熱くなります。推してて本当に良かった。

前述の「スプリットステップ」の前振りも効いていて。ぽんぽこの誰にも捕まえられない天衣無縫さをよく表現しています。ここで雷光とカメラのシャッターを重ね合わせたのほんと天才。日常が一瞬で過ぎていく、そこをひた走るぽこピー。その瞬間の実像を写し出した写真かのようなバースです。

夢を見たんだ ねぇ 話してなんか ねぇ 
思い出せないや メランコリーワンダー
汚い小窓 発光ダイオード 
メリーゴーランド 夕暮れ放課後
アルバイト ネットの感想 
揺れる東海道 冷たくなってるコーヒーカップ
ろくろ回してる陶芸家 音の波に乗るup and down
コバルト田中の探検隊

ここの部分もすごい詩的で大好き。起きれば忘れてしまう夢のなかを「メランコリーワンダー」の言葉に仮託して、音感と現実の断片をちりばめながら歩いているかのようです。

断片的な言葉の切り出し方が、一枚ずつ写真をめくるような感覚を与えます。当人たちしかわからない物語が写真には必ず乗ると私は思っていて、それは写真を見ている当人以外の私たちにも「事実ではない物語」を与えます。事実として在った物語を我々は知りません。ですが、「ぽんぽこ」に近ければ近いほどこの言葉たちは重みを増していくのだと思います。

Vtuberとしての生活であったり彼らを取り巻くインターネットの事実であったりもっと根源的なきょうだいとしての距離感であったり。

事実そうであるかどうか。これは終章の『「カフカ」との対比』でべらべら余計なことを語ろうと思います。ただ私にとってすごく価値のある思考体験でした。あらためてこの曲が好きな理由を考えることができました。

細かいひとつひとつに踏み込むのは無粋とは感じながらも、きっとこの2人が好きな方なら、フレーズひとつひとつに思いを馳せるだろうな、と感じています。私はこのセクションの最後が「コバルト田中の探検隊」だったことにグッときています。アニメからすべてが始まっていて、ぽんぽこが一番好きなキャラをフレーズとして採った。その事実。

古い双眼鏡を覗いて 膨らませているよほっぺた
ディズニーシーでも満たされないからさ 流してこんなミュージック

I'm a princcess of カメラ越し Yeah
雷が光るようにシャッター切って
おへそ隠しても敵わないぜ
光の速さで進んでくweekend

全部覚えて 全部忘れて 全部が消えてしまうまで
全部覚えて 全部忘れて 全部が消えてしまうまで

やっぱりhookが素晴らしすぎる。ディズニーシーにしたのもいい。

最後が「全部覚えて 全部忘れて 全部が消えてしまうまで」というのは、前述のVtuberに対する刹那的なビジョンもあるのかもしれません。ですが、もっと写真的な思想で考えてみると、今生きている私たちも彼らきょうだいにとって「写真」なのかもしれないなと思いました。

私たち視点では彼らを対象化していますが、あの2人からすると私たちを含めたこの現実がいとおしい写真で、それを大切にしたいという気持ちがあるのかもな、と。彼らも私たちもおなじいきものとして現実を生き抜くその代価として、現実にある今大事なものをこぼしながら突き進んでいく。

大事だったその瞬間は一つの実体的な「もの」を通じてよみがえる。人間はそういうものだと思います。その「もの」すらなくなる瞬間は必ずやってきますが、それを大切にすることが「人間らしさ」の一つの形なんだと思います。Vtuberはここに生きている人間。改めて胸に染み込みました。

『カフカ』との対比


「カフカ」はぽんぽこの代表曲の一つです。そしてぽんぽこが「ぽんぽこらしさ」を強くイメージした作品だと思います。

作詞・作曲はボカロPのEpochさん。ぽんぽこからヒアリングをした言葉で作詞をし作曲されたとのことです。バンドサウンドの力強さがぽんぽこのクリアな歌声とかけ合わさって、こちらの曲も大変すばらしいです。そもそもぽんぽこが参加した楽曲がハズレだったことがない。

で、この曲があまりにも「Vtuberとしてのぽんぽこらしさ」を表現してしまった(もっというと「Youtuberらしさ」なのかも。敬愛しているのがデカキンさんであることからも察せられます)。活動者としてありたい形を代表曲として思いっきり出せた。この曲に関してもいろいろ思うところがあるのですが今回の本題ではないのでひとまず置いておきます。

Bokehは「ぽんぽこ以外の観測者からみたぽんぽこ」の形を本当によく描いていると思うんですが(克明すぎるくらい克明に)、それがぽんぽこの形なのか?というのがこの終章のテーマです。

カフカもBokehもどちらもぽんぽこを描き切った作品であることに議論の余地はありません。ただ自認する意識=自画像はカフカのほうに寄っているとは個人的に思います。別の言い方をすると、ぽんぽこが見てほしいぽんぽこはカフカのほうである。そういう風に私には見えています。

ですが一方で、楽曲としてのBokehはぽんぽこが大好きな人間からしてみると本当に刺さってくる。それは最もよく見ている人間に楽曲の才能がありすぎて、見せたいもの以外が見える楽曲に仕上がってしまった。ぽんぽこにとってそれを良しとするかどうかは悩みどころだったのではと穿っています。

そこまで考えると、タイトルにBokehと付けたぽんぽこもまた天才であった、そう結論付けることになります。

私たちもぽんぽこを自由に見ることが可能であって、それはぽんぽこの求める像でないかもしれない。先述した「事実としての物語」は写真には写されません。私たちは私たちの求めるぽんぽこを必ずその写真に見ます。それは本当に妄想であることもあります。でも、正しく存在を愛するときには、人は慎重に、一歩ずつ距離を縮めていくものでしょう。

その一歩がぽんぽこに送るバースデーソングとしてBokehが作られたこと。5周年生放送でもピーナッツくんが言っていましたが、「正直わかんない」は本音だと確信しています。Vtuberとしても実の妹としても、その存在を肯定する曲なんて、普通確たる自信をもって書けない。ぽんぽこをどういう風に見てほしいのかわかんなくなって、手が滑ってあまりにも(私たちにとって)素晴らしくなってしまった。そんな感じに私には見えます。

ではその一歩をどう考えるか?我々はコメント欄で好き勝手書きます(この記事なんて好き勝手の権化みたいなものです)。そのどれかにいいねをつけることで、「この曲はこういう曲だ!」ってみんなで思い込みます。それも楽しみ方としてはアリですが、楽しいだけでぽんぽこを消費したくない。一歩ずつ、存在を確かめるように触れていきたい。

ぽんぽこが苦悩の上にどう受け取ったか。以下私の妄想です。
ぜんぶひっくるめて、自由に決めていい。どれをカメラのボケとするかピントが合ったとするかは私たち次第。誰かにとってはボケの中にぽんぽこがいるし、あなたにとってはあなたのカメラのピント上にぽんぽこがいる。「事実」をあやふやにして「あなたを真実とした」のがタイトルの『Bokeh』です。ぽんぽこは天才。異論は認めない。

コメント欄を作らなかったのもあなたの真実を大切にしたかったから。春先にはレコーディングが終わっていたのに公開時期をぽんぽこに任せたのもスタッフの愛です。様々な愛が詰まった楽曲だと噛みしめています。

歌いたいときに歌ってくれたらいい。ただ、ぽんぽこの全楽曲が好きな私は誇張抜きでずっと待ってます。『はなとなり』で号泣したときから私はずっとぽんぽこの歌声に背中を押されていますから。

こんなに長い駄文を読んでいただき、ありがとうございました。

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