『シン・ゴジラ』の「遅延」

執筆 茂野介里

『シン・ゴジラ』は「怪獣映画」ではないです。怪獣を前提とする世界を描く物語という点で、今作は、怪獣を前提としていない世界に怪獣が出てくる物語なのです。このプロット自体は本多監督の『サンダ対ガイラ』という東宝の映画からの引用で、シン・ゴジラは劇中で呼称が決まり、それをメディアが流すまでの時系列を書いているわけです。この点で怪獣映画とは言えません。いうまでも無く本多監督は、ゴジラの生みの親であり、本多監督以前には怪獣映画という枠組みは存在しえなかった。怪獣映画という枠組みが存在しえたのは、まず本多のモンタージュに対する批評を前提とするからなのです。その点で、今作は本多まで巻き戻した作品であると言えます。しかし、本多と違って、民草が描きそこからゴジラに踏み殺される絵を強調される映画では無く、民草が殺されるシーンはいくつかあるものの、それ以上に会議室からのモニターに映される怪獣が象徴的な作品です。これは「人間」ではなく、その人間が作っている副次的な「組織」と「虚構」を出題としているという象徴的なものとして挙げられるでしょう。半ば現実であるかのように見える行政の描写。確かに政府のディティールはすごいものがあるんですが、これもまた、被災地には行かず会議室でゴジラの対処を決めている。そういう点で彼らも虚構でしか存在しえないものとしてゴジラを見ている。

ゴジラの定義2
長谷川氏が演じる首相補佐官は冒頭、理想主義的な寝言を語り、内閣をかき乱す存在だと描かれ、逆に竹野内豊は、リアリズムの人として描かれます(長谷川が情熱の赤のネクタイをつけ、竹野内豊は青のネクタイをつけていますが、これもサンダ対ガイラの引用だと思われます。サンダ対ガイラは、ガイラ=海彦 サンダ=山彦の兄弟喧嘩で、激情派のガイラが人間に危害を加えて、サンダが諌めるというプロットです)。
そして、夢見がちのように思われている長谷川の立場を肯定するかのように、長谷川の「予言」があたり、逆にリアリスティックに思われている決断をしているように見える内閣は後手に回っていきます。中盤で、長谷川はゴジラを生で観るシーンがありますが、そこで彼は圧倒的破壊に興味を覚えつつ見ているかのような撮られ方をされていますが、長谷川にとって、ゴジラが出てきたというのは「災厄」であると同時に、それゆえ自分が思い描いていた世界が来たという願望が叶った現実であるわけです。
で、長谷川が嫌悪感を示しているのは無責任な統治者が治める現状。特に遅延を繰り返して、ゴジラに対処できない現政権に対する苛立ち。この遅延というモチーフは、おそらく本作の一貫したテーマです。

遅延の美学
今作で一貫して描かれているのは遅延です。遅延のモチーフを一貫して描くためのマストは、首相である大杉漣が死んだあとに後任として出てくる平泉成に他なりません。新総理となった平泉成の初登場シーン。いくつかの情報を官僚から語られたあとに、食べようと思っていたラーメンが伸びていたシーンがありますが、ここにこそ本作の最大のショットを垣間見ることができますね。
遅延。すなわち伸ばしていくこと。長谷川が打開策を上げる要因は、アメリカが核兵器を落とすという警告をしているからであり、数少ない民草が殺されるシーンとして、時間差でテレビを見ている店員がゴジラに踏み潰されるシーンがある。あるいは、そもそも今になって国産ゴジラを作るというのも歓迎されたものではなく、エヴァンゲリオンの制作の遅延に他なりません。いくつか挙げてみましたが、すべてが遅れさせ延長させるために一貫して政治家達は動いている。これが本作であります。
そして最後に、前半で、日本に対する憂いを見せていた長谷川ですが、ラストで平泉成という自分がいちばん遠くのように感じていた政治家がいなければ自分の作戦は成功しえなかった事実を知る。そして、戦後語られ尽くした、ゴジラというのが東京の真ん中にいる状態。これも戦後という「時代」を、いろいろな悪い点を含めた上で、それでもリアリティという「虚構」を前提とした現実として肯定しようじゃないかという遅延と読み解くのは、深読みではなく、この様にプロットを素朴に、画面をただ見ていくだけで理解できることだと、筆者はおもいます。
#映画批評
#エッセイ