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「インド藍」は染料か植物か
特に気にしたことのなかったことが、突然気になり出しました。気の向くままに調査してみましたら、色々と混乱した状態だったことが見えてまいりました。
私たちが「インド藍」という言葉を口にする時、もしくは目にするとき、状況によってその言葉が染料を指したり植物を指したりしています。そもそもどうしてそうなったのか…実際に石垣島を訪れた時に初めて伺ったお話がきっかけとなり、調べてみたことをご案内しようと思います。
日本と「インド藍」の出会い
日本にインド藍が輸入され始めたタイミングを知った時、私は少なからずショックを受けました。明治の文明開化が謳われた頃ではなく、安政6年(1859年)の横浜開港直後だったからです。
日本にとって、国の隅々まで行き渡る重要な産業に発展していた藍染業界。事業に携わる要人は、地域の金融・政治に深く関わる役職も兼ねるほどの繁栄ぶりでした。そんな重要な産業に国外の輸入品を開国最初期の段階で投入許可していたなんて…
日本政府は始め、国を代表する産品の一つとして蒅(すくも)の輸出を考えていたそうです。しかし、世界に流通するインド藍の量と価格に太刀打ちできるものではないと判断し輸出を断念しただけでなく、インド藍の輸入に踏み切るという、一足飛びではないかと感じるような決定に至っています。
とにかく、この段階で我が国が「インド藍」と呼んで認識していたものは染料(正確には顔料)であり、植物を指してはいませんでした。海外からもたらされた青い色素の塊を、インド藍と呼んだのです。
原料はマメ科コマツナギ属の藍分を含有する植物で、沈殿藍を塊の状態にして乾かし、東インド会社などが世界中で取引していました。
この時、国内でインド藍の取り扱いの窓口の一つとなった森六という藍商にはこうした記録があります。
当時、阿波の藍商たちは海外事情に疎く、また、藩の掟を守って阿波藍以外の国産藍はもちろん、外国産の藍など取り扱おうとはしなかった。しかし、阿波藍に比べてインド藍は安価なうえ染め色もきれい、運搬も容易ということもあって、紺屋(染物屋)が使い始めた。やがて藍商たちも禁を破ってインド藍を取り扱うようになるが、最初は輸入量の多かった横浜や東京で広まり、次第に大阪にも飛び火していった。東京の阿波藍問屋たちは「藍靛同盟会」という機関を設立して輸入インド藍の商売に励んだ。
国内に築かれていた、強固な阿波藍ギルド崩壊の端緒を見る思いです。やはり「安価」であるということは、強烈な競争力になるのですね。インド藍の国内での台頭を受けて、国産沈殿藍の工業化に向けた模索も始まりますが、これはまた別の機会に掘り下げてみたいと思います。
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