五代友厚の沈殿藍事業(2)
1800年代、藍で潤っていたのは日本だけではなく、桁違いの富を列強国にもたらしていたことに触れた前回。五代さんが目指していた藍産業モデルはそうした列強国にあっただろうと思います。
今回は、目標としていた理想像から乖離した結果に終わった朝陽館について、不気味な動きをしているドイツの登場も含めて考察しようと思います。
五代友厚が目指していた産業ステージ
前回の記事で触れたように、五代さんは沈殿藍の国内シェアを商売のメインに考えていたのではなく、列強各国への輸出でこれまでにない規模の物とお金を動かそうとしていました。朝陽館を設立した1876年(明治9年)、中国にも支店と染業所を作り営業を開始していることからも、そうした気概を感じられます。
前回の記事で触れたように、朝陽館設立前年にフランスへ輸入の取り扱いについて打診し、1881年(明治14年)にもイギリスの市場調査用として朝陽館の藍顔料のサンプルを送っています。
五代さんの目標は、あくまでも当時のロンドンのインド藍売買の規模。年間取引額3億3500万円。日本を強い国にして、列強国に飲み込まれずに渡り合うためです。
ところで、五代さんにとって中国・イギリス・フランスは旧知の国でした。
中国は薩摩藩の代表として軍艦を買い付けにグラバーと訪れていたし、イギリスとフランスはかつて視察に訪れた場所です。各国の窓口となる現地住まいの日本政府筋の要人ともパイプができていました。必要と思われる市場調査は彼らを通して行われていたのです。ですから、どのような道筋を作って海外との取引を進めていくか、五代さんの頭の中では現実的な絵が描けていたと思われます。五代さんは最初から、国内の蒅ビジネスの市場をどうにかしようという気持ちはほとんど持ち合わせていなかったのではないかと、私は個人的に思っています。
それにしても、こんな規模のことを個人ではとてもできません。やはり新政府も国家事業として取り組むべき事案とみなしたために、国から無利子で50万円を借りることができたと考えています。1877年(明治10年)、明治天皇が朝陽館に行幸されたのは、そうした国家レベルの事業への取り組みと認識されていたことが伺えます。
この頃の大きな出来事として明治天皇行幸と同じ年の1877年(明治10年)、故郷の鹿児島で西郷隆盛による日本最後の内乱「西南戦争」が勃発しています。朝陽館の理解者でありパトロンでもある内務卿(実質の内閣総理大臣)大久保利通は、かつて同志だった西郷隆盛率いる薩摩軍の敵方である新政府軍を指揮していました。この内乱は1月に始まり9月に終わっています。五代さんも薩摩藩士として交流のあった西郷隆盛は、最終局面で自決。薩摩軍約6700名、新政府軍約6400名の死者を出し、大きな被害を両軍に与えました。
故郷で起こった旧知の人同士が戦う戦争に、心を痛めることもあったと思います。けれど、五代さんにとってもっと大きな衝撃となることが、この次の年に起こりました。心からの信頼を置いた、内務卿 大久保利通の暗殺。1878年(明治11年)5月14日のことでした。この一報を受けた時の五代さんの様子を、婿養子の五代龍作氏が書き残しています。
大きな理想を共有してきた同志を突然に失い、驚きと悲しみの入り混じる尋常ならざる動揺が伝わってくるようです。そして、まるでこの凶変を合図にしたかのように、朝陽館の経営にも暗雲がたちこめ始めます。
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