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阿波の藍ビジネスはシステマチックだった

 noteでアカウントを作って記事を書くようになってからずっと、「藍染め 儲かる」「藍染め 儲けられる」というキーワード検索で訪問される方が後を断ちません。そして、私はその期待に応えられるような記事を一度も書いたことがありません。今回もその期待に応えるために書く記事ではありませんが、もしかしたらちょっとしたヒントになるかもしれません。


阿波大尽の誕生

 江戸時代、藍染の染料となる藍玉(蒅をついて固めたもの)を製造販売した阿波の藍商人が莫大な財をなし、政治経済に大きな影響を与える存在にまでなりました。一般人には許されていなかった帯刀と苗字を持つことが許されていたことからも、街の経済の重要な構成要員とみなされていたことが伺えます。
 そんな阿波藍商人の数ある豪勢なエピソードの中に、8代目西野嘉右衛門が江戸吉原の大門を3日間締め切り、豪遊したというものがあります。桁違いの富を築き上げ保持している彼らは「阿波大尽」と呼ばれ、人形浄瑠璃や歌舞伎の登場人物として演じられるほど、時代を象徴する存在になりました。

 ふと、彼らの富はどのようにして築かれたのか、気になることがありました。今の藍業界へのヒントとなることがあるのかもしれないと考えたからです。かつてのような産業にまで復活させることは望めなくても、健全な藍染を健全に続けていけるだけの経済基盤を整えるために、意識する必要のあるものが見えてくるのではないか。なんとなくそんなことを思ったのがきっかけです。

 阿波大尽隆盛の直接の根拠の一つとなったのは、もとは大坂で行われていた「藍大市」を、徳島で開催するようになったことが挙げられます。1767年〜1916年のおよそ150年間、毎年11月9日〜16日に今の徳島市船場町で行われた藍玉(蒅をつき固めた染料)の見本市です。
 この大市には東京・京都・大坂など、当時の大都市を中心とする全国の買い手の藍商人が集いました。大勢の藍商人を前にして、その年に生産された藍玉の品評会が行われるのです。主には、手板法と呼ばれる鑑定方式で、蒅の粘りや色味を確認していたと伝わっています。ここで、品質が高いと鑑定されたものは「瑞一」「準一」「天上」という格が付き、それを元にして取引価格が決定しました。

 公衆の面前で根拠のはっきりとした品質鑑定が行われ、その成績に基づいた価格が公表されるというのは、公正な取引成立を目指す生産者と買い手の両者にとって申し分ない仕組みです。ブランディングに不可欠な「品質」「信用」「適正価格」を一気に共有することのできる催しです。
 この品評会での高評価を目指し、各藍師の蒅づくりとそれに連携した藍農家のタデアイ栽培方法に工夫が重ねられ、品質が飛躍的に向上するという重要な変化を促すことにも貢献しました。

 1713年に出版された『和漢三才図会』では、阿波藍の評価は畿内の摂津藍や山城藍に注ぐ品質と記されています。そこから約100年後の1829年に出版された『草木六部耕種法』では、藍葉を作るには阿波国の作法を学ぶべし、と評価されるようになっていました。
 地域をあげてコツコツと品質向上に取り組み続けていたことが窺える変化です。売れるようになるためには、いいものを作る。これはその見本のような出来事ですが、実はそれだけで阿波藍のブランディングが叶ったわけではありません。
 実は阿波藍に携わった人たちは、商品作物としての藍玉の精度を上げる前に、「品質のいい染料を作れば売れる仕組み」を作り上げることに辛抱強く取り組んでいたのです。

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