宇多田ヒカルの『俺の彼女』が好きすぎるから、ちょっと話を聞いてくれないか

2019年に書かれた昔のノートの転写です。

注意書き


宇多田ヒカルの「俺の彼女」の歌詞が如何に美しく完璧に構成されているか語らせてもらう。
聴いたことがない奴は今すぐAmazon Musicなり何なりで聴いてこい。

(歌詞全体を載せることはできないので自分で探してきてください、もしくは俺のように暗記してください)


「俺の彼女」の構成は大きく三幕に分けることができる。これはハリウッドの基本手法である「三幕構成」に則ったものと思われる。
一幕は「俺の彼女は」から「狐と狸の化かし合い」まで。
二幕目は「本当に欲しいもの」から最初のフランス語パートが終わるまで。
三幕目は「身体より」から終了まで。
正確に言えばもっと細かく分けることが出来るが(例えばラストの『俺の彼女は』のリフレインはむしろエピローグ的である)、とりあえず主要なプロットはこの3つ。どの幕にも含まれない「俺には夢がない」のパートについ
ては後述する。このパートはこの曲の中で最も重要な意味を持つ。

俺の彼女はそこそこ美人 愛想もいい
気の利く子だと仲間内でも評判だし

俺の彼女は趣味や仕事に干渉してこない
帰りが遅くなっても聞かない 細かいこと

あなたの隣にいるのは
私だけれど私じゃない
女はつらいよ 面倒と思われたくない

『俺の彼女』

まず第一幕。三幕構成で言えば「始まり」「発端」「状況説明」「誘引」の部分だ。
音楽にしても映画にしても、ほとんどの人間は初めの数秒でその作品の良し悪しを決定してしまうらしいが、宇多田ヒカルの音楽は基本的に初めのフックはあまり重視しておらずエモーションが右肩上がりになっていく構成なのでその点ではちょっと弱いかも知れない。
ここでは、この曲には「男」と「女」の二人の登場人物がいて、二人は付き合っているということを説明している。
第一幕の男は、自尊心が高い高慢な男として描かれている。ひたすらに自分の彼女が如何に都合のいい女かを自慢し、ステータスのために彼女を所有しているかのような自惚れをひけらかしている。
そしてそれと入れ違いに挿入される「女(彼女)」のパートでは、彼女が男のわがままや高慢を我慢していることが描かれる。「女はつらいよ 面倒に思われたくない」というように、言いたいけど言えない気持ちを表している。
重要なのが、この時点ではそれが好意によるものなのか恐怖や世間体によるものなのかが明言されていないこと。
「あなたの好みの女を演じる」というふうに、無理をして男に合わせているというのが伺い知れるが、この後「女」はどうするつもりなのかがまだ分かっていない。
「はじめは魅力的と思って付き合い始めたが、徐々に男に合わせるのが辛くなっていき、もう別れたいが切り出せない」という可能性も十分考えられる。第一幕の最後に結末のヒントとして「狐と狸の化かし合い」というフレーズが残される。これは第二幕・第三幕双方への伏線となっている。

本当に欲しいもの欲しがる勇気欲しい
最近思うのよ 抱き合う度に

『俺の彼女』

第二幕では、男の心理描写は一切描かれない。女性の独白のみに終始する。
第一幕で繰り返されていたメロディパターンを大きく逸脱し(ただしコード進行は女パートはすべて共通)、「本当に欲しいもの欲しがる勇気欲しい」という言葉から始まる。まだこの言葉の真意はわからない。
「別れと新たな恋」を求めているのかも知れないし、または「男の欠点の改善」を求めているのかも知れない。
答えは「抱き合うたびに」の後に提示される。
ここまでとここからでは結構大きく変わるのでこれもひとつの区切りだが、「女性の独自」という区切りでどちらも第二幕に分類した。
ハリウッドでいうならこの2つを分かつ部分に「ミッドポイント」が存在する。
ミッドポイントの後、ベースのドロップと、深刻さと壮大さが増すストリングスとともに「身体よりもっと奥に触りたい」というフレーズが入ってくる。
ここで「女」は自分勝手な男が嫌いなわけではなく、その弱さも含めて愛す器量を持ち合わせており、むしろ「彼が見ている私」という取り繕われた偽物の自分と本当の自分に乖離を感じ、「もっと深く近づいていきたい」と思っている。
おそらく冒頭の男の説明から、彼女は彼の前では気の利く大人しい体のいい女性を演じてきたのだろう。だから急に彼を「身体よりもっと奥に招く」ことはとても不自然となり、できないのだ。

エロティシズムと生命根源の融合のような美しい独白の後、唐突にフランス語のフレーズが挿入される。意訳すると「私の中に入ってくる人を誘いたい、私の真実を見つけてくれる人を招きたい、私に触れてくれる人を導きたい。永遠、あなたを誘いたい」という具合になる。(L’éternitéは名詞であり副詞ではないので『永遠に』とはならない。音合わせの部分もあるだろうから此処は深く考える必要はないと思う)
ただのエロいフレーズと見ればそれまでだが、どこか手塚治虫チックでもあるような『生命そのものへの漸近』を表しているように思う。また、あえて「愛の言語」であるフランス語を使うということは『愛』の美を強調したかったという意図もあるだろう。

そして第二幕と第三幕をつなぐ、シド・フィールド曰く「プロット・ポイントII」またはセカンド・ターニングポイントが直後にやってくる。
美しい主旋律と共に、第一幕以降鳴りを潜めていた男が突如本音を吐露しはじめる。

俺には夢が無い 望みは現状維持
いつしか飽きるだろう つまらない俺に

『俺の彼女』

ここで、今までの曲の印象が鮮やかに覆される。男は実はとても己に自覚的で、不安ゆえに虚勢を張っていただけだということが分かる。そして第二幕と併せて「男女がお互いに無理している」ということが判明し、この曲のテーマがはじめの印象である「馬鹿な男と可哀想な彼女」から「お互い相手の深い所に触れたいけど、自分をさらけ出せずにいる歌」に変貌するのだ。この瞬間のカタルシスは筆舌に尽くし難い。
第三幕では、もはや男女のパート分けなど無く、ただ壮大で神聖な音が続いていく。使われる歌詞はすべて今まで出てきたもののリフレインである。同じ言葉しか使われていないのに、その歌詞に「今まで持っていた意味」とまるで違う意味が視えてくるのは圧巻である。『ズートピア』もそうだが、リフレインは効果的に使うと非常に美しい。繰り返す行為自体が強烈な伏線になるのだ。
音楽的には、ここで初めて今まで使われていなかったスネアが入ってきて音が一気に重厚になる。出だしは「身体よりずっと奥に……」のフレーズが再び繰り返されるのだが、実は後ろのストリングスで先程のプロット・ポイントIIの主旋律がそのまま使われている。これがまた良い絡みになっていて、賛美歌のような美しさをもたらしている。メロディライン自体も男の弱さや虚しさを想起させ、ふたつの色がぐちゃぐちゃに溶け合っていく感覚を味わえる。
そして最後、フランス語パートを再び繰り返すのだが、突然ギターが追加され、コーラスが一気に増え(オクターブ上のものが特に良いフックとなっている)、また第二幕以降ずっと繰り返されていた上下するストリングスのフレーズがオク上分増えて”叫び”のような音色を響かせる。ここがこの曲一番のカタルシスである。はじめはあれほど少なかった音色が、音楽が進行するにつれ徐々に増えていき、最後には己のどうしようもない葛藤や欲望を叫ぶかのごとく荘厳たるものになるという構成の業は、おそらく音楽のひとつの完成形といえるだろう。
フランス語が終わってからは波が引くように一気に収束に向かっていくわけだが、ここも実はすごくて今までカケラも出てこなかったシンセサイザーの音が聴こえてくる。そしてコーラスの「アアアアー」という部分はおそらくオートピッチが掛かっており、『バッハの旋律~』のコーラスのような不思議と切なくなるような感触を残す。きわめて物悲しいクオリアを与えてエピローグに向かう。
最終部分では一番最初のコード進行に戻り、一番最初の歌詞を繰り返して終わる。ただしここもただでは終わらず、一番最後の音を半音ズラしている。これもどこか示唆的である。

この一連の構成はまさしく一冊の短編小説のようであり、「はじめの印象」と「終わりの印象」の劇的な変化を味わえる、実に多幸感に溢れた曲なのである。同じどんでん返しをするにしても、この曲ほどうまくやった例を俺は他に知らない。最後のラインで衝撃を与えるという手法はよく見られるが(例:演劇テレプシコーラ)、これはいわゆるクリフハンガーというものであり俺の彼女で使われているものとは決定的に異なる。なぜならクリフハンガーは「転」のまま物語の結末を描かず終わらせることで半ば強引に観客に衝撃を与える手法であるのに対し、俺の彼女の場合は結末をきちんと描いており、むしろループを表している。

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