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「共に生きることを学ぶ権利」について

海外のインクルーシブ教育の実践に思うこと

 以前のnoteで、オーストラリア・クイーンズランド州やカナダBC州のインクルーシブ教育について紹介してまいりました。その実践や考え方からは、日本にいる我々が学びうることが多くあると思います。
 しかし、一方で、私自身、インクルーシブ教育に熱心に取り組んでいるとされるイギリスやオーストラリアの実践においても、やや物足りなさを覚える部分がありました。それは「共に学ぶ」ということの価値が教員の言葉としてあまり語られないことです。「多様性の尊重」はよく語られますが、一方で、学校で子どもたちが何かを「共に」学ぶことの意義は何かというような、そうした内容は教員への聞き取りの中でもほとんど聞かれませんでした。それは、おそらく、かれらにとってのインクルージョン(包摂)が、基本的に一人ひとりの学習への参加や成長を保障することを意味しているからではないかと思います。そもそも欧米においては、土台となる教育観が個人主義的であり、子どもたちを交流させ「つなぐ」という発想があまりないのだろうと感じました。欧米のインクルーシブ教育にも国により違いがあると思いますが、子どもたちを「つなぐ」ことに関する価値や意味づけの弱さは、今後、根本的な課題になってくるのではないかと感じました。
 欧米と違い、集団主義的な側面が強い日本の学校教育ですが、こと特別支援教育に関していえば、「個」の成長・発達の支援に重きがおかれ、それを効果的に行うため子どもたちを「分ける」方向へと進みがちです。このことは、特別支援学級に在籍しその教室で多くの時間を過ごす子どもの増加、特別支援学校に就学する子どもの増加により顕著に示されています。「共生社会の形成に向けたインクルーシブ教育システム構築のための特別支援教育の推進」(2012)という文科省の答申でスタートした日本の特別支援教育ですが、結果として生じている「分ける」教育の強まりが、本当に「共生社会の形成」に向かうものなのか、疑問を感じるような状況があります。
 さらに、最近日本では、教育のICT化を軸とした「誰一人排除しない個別最適化された学習」の推進が叫ばれています。この「個別最適化」という言葉についても、過度に「個に応じた指導」の側面が重視され、それが生み出す教育方法が子どもを「つなぐ」よりも「分ける」方向へと進んでいかないか、注視しなければならないと思っています。
 一方で、これから訪れるとされる「変化の激しい時代」に皆が適応し、かつ、国として経済競争力を保っていくためには「個」の力の育成が大切だという欧米的な個人主義的教育観が日本でも強まっていると感じます。ただ、そうした教育観に基づく改革を進めても、それは現状の「勝ち組」「負け組」をつくり、社会的排除を許容する社会を維持していくに終わるのではないでしょうか。
 そういう社会ではなく、誰もが参加できる共生社会をめざし、それを可能にする包摂的な教育(インクルーシブ教育)を築いていくためには、どうすればよいのか。「個」の学習権を保障するという原理だけでは子どもを「分ける」方向にも力が働くので、私は、それに加えて、「共に生きることを学ぶ」ことを保障する原理が必要だと考えています。すなわち、私は「一人ひとりが学び育つ権利」(学習権)と補い合う関係にあるものとして、新たに「共に生きることを学ぶ権利」を構想し、両方の権利の保障に立脚したインクルーシブ教育(あるいは、憲法でいうところの「普通教育」)を進めていくべきだと考えます。
 
共に生きることを学ぶ権利
 
 私が考える「共に生きることを学ぶ権利」とは、共生社会の形成を目指し、多様性をもつ他者と共に育ち、生きることを学ぶ権利です。それは、例えば、障害の有無という問題に焦点を当てれば、障害のある者だけでなく、それがないとされる者も共に享受されねばならない権利です。
 この新たな権利を考えるにあたり、一つヒントになったのが、私が二〇一六年と二〇一七年に共同研究で調査に行った英国のロンドン・ニューアム区のインクルーシブ教育の取り組みです。ロンドン・ニューアム区は、一九八〇年代から統合教育の推進に取り組んできました。区内にあった多くの特別学校を閉鎖させ、障がいのある子どもが地域の学校で学べるインクルーシブ教育が確実に広がっていき、国内外の注目を集めました。
 こうした変化の推進力となったのは、同区における障害児の親たちの運動でした。その親たちが行政と協議の場をもち(中には自分が直接、区の政治家になったりして)区の教育方針を「インクルーシブ」に向け方向付けたのです。特に、その転換点になったのが、一九八〇年代後半に同区の議員、保護者、行政職員などがつくるワーキンググループが出した「論点整理」です。そこでは、障害のある子どもが特別学校で学ぶという「分離教育」の撤廃がなぜ必要なのかが明確化されました。次はその一部です。

◯ 全ての個人は、身体的もしくは精神的な能力に関わらず平等であり、「分離」された特別教育は差別をもたらす主要な要因となっている。
◯ 人々が皆同じではないこと、しかし他方で「人種の問題と同様、障害があるからといって異なった扱いを受けるべきではないこと」を学べる現実的な環境を経験することは、障害や困難をもたない児童生徒の権利でもある。
右の抜粋において、重要なポイントは次の二つです。一つは分離された環境が、人種差別と同様に、偏見や差別を生み出す要因であると述べている点です。そのように偏見や差別を生み出す元であるからこそ、分離教育が撤廃されねばならないということです。

 もう一つが、「分離されていない、共に学び育てる環境」が、障害のある児童生徒にとってだけではなく、障害のない児童生徒にとっても必要であり、そうした環境で学ぶ権利がその子どもたちにあると述べている点です。また、この「論点整理」の後、一九九〇年代に出されたニューアム区のインクルーシブ教育憲章においては、インクルーシブ教育を進めたいと考える理由の一つに「すべての子どもや若者に意義があるから」と述べ、その意義を列挙しています。その意義の中には、例えば、「子どもたちはお互いをより受け入れ、支え合うようになり、お互いを大切にするようになる」「(一人ひとりが)異なった存在であることが肯定的なものであることを教えてくれる」「人権について実践的なことを学ぶことができる状況に彼らを置いてくれる」「彼らが自分自身が困難だと思うことに向き合う上で、障害のある子どもたちは他の人の模範になることができる」などが含まれています。

 これらはまさに「共に生きることを学ぶ」の中身を表すものですが、共生社会に生き、その担い手になるために欠かせないものであり、それらを学ぶことがすべての子ども・若者にとって「権利」なのであることを説得力をもって伝えています。さらに、そのように「共に生きることを学ぶ」ためには、障害の有無によって「分ける」教育をしていたのではそれを成し得ません。「共に生きることを学ぶ権利」の保障のために、多様な子どもたちが「分けられず」学び育つ場が必要であるということになります。そのように、一人ひとりの「学び育つ権利」だけではなく、「共に生きることを学ぶ権利」を、子どもの固有の権利として捉え、その保障に取り組むことによって、本当の意味で共生社会を目指したインクルーシブ教育を進めていくことができるのではないかと考えています。


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