宝塚歌劇団の記者会見を見て思う事

今、話題になっている宝塚歌劇団だけではなく政治家や有名人などの謝罪会見を見ていると、非を潔く認めず自分を守る姿が女々しくて不愉快になり、チャンネルを変える。
もしかして、知能が発達した人間は、何かをやらかした時には、まず逃げ場を探す生き物なのかもしれない等と勝手に分析してしまう。

先日、主人のお気に入りのグレーのズボンを洗濯する時に、漂白剤を垂らしてしまったらしく、股に一ヶ所百円玉ほどの白い円を作ってしまった。
主人はそれを見て『何が着いたのかな~、ペンキじゃないし…」と首を傾げていた。
私は心の中でヤバッと思いながらも、漂白剤にまで想像がいかない主人をいいことに、『全く、おとうさん! どこで何してきたの!』と罪のない主人を逆に怒ってシラを切って切り抜けた。

あとで、思うのだけど

何故、すぐに 『あー、ごめんなさい、漂白剤だ』って言えなかったのだろう…と。

主人に頭を下げたくないから?

お気に入りのズボンでビビったから?

じゃぁ、お気に入りの服じゃなくて作業着だったら素直に白状出来た?

いやいや
そういう事じゃない。

この位の事案なら「逃げれる」「逃げても大丈夫」と私の脳内AIが下したのかもしれない。
(ハハ…この期に及んで、私のせいにしてない)

要するに、こういう事なんだと思う。
哀しいかな人間って。

こんな可愛い日常の過ちなら誰にでもよくある事だと思いますが、(思いたい!)

例えば笑えない過失を犯した時に

一瞬 逃げられる道を(言い訳)をものすごいスピードで考えるような気がします。
その後で、理性の働く自分に戻り、その人なりの行動を起こし対処するのだと思うのです。
一つ嘘をついたら、また嘘をつき、終いには本当が何だか分からなくなる程の架空を作り上げてしまうかもしれません。


大正時代から始まった宝塚。伝統を重んじる宝塚。
上級生には絶対。上級生が廊下を歩けば、下級生は廊下の端に並び通りすぎるまで頭を下げる?

別にいいと思います。

長い歴史のある高校や大学の応援団、
ボロボロの学生帽に高下駄のバンカラスタイル、端から見たらイジメだろう と、思えるほどのイマドキじゃない指導、
でもこれが変わらぬ伝統なのでしょう、見ていて馬鹿げているとは思えない。
逆に伝統を守ろうとするプライドを感じる。

伝統には、有形と無形がある。
有形とは、いわゆる 形 そのもの。
無形とは、信念、想い でしょうか

伝え続けていきたいと思う時、形(形態、所作)は伝えやすいと思います。
問題は、中身(無形)です。
時代の流れと共に、形は最初よりどんどんグレードアップしますが、どんな物でも最初に始めた創始者(初代)の純粋な想いは言葉や文字としては伝える事は出来ても、それを同じ心情で感じ伝える事は難しいのではないでしょうか
だって、感じる心は人其々だから
そして何よりその時代に生きて体験していなければ同じ心情には絶対なれないと思うから

だから、結局は宝塚歌劇団のように、形の伝統だけが残り、しかし、それが当たり前になり、「これが宝塚歌劇団なのだ」くらいの世界が成り立っていた
そう思うのです。

ニュースを聞いていて、女の世界『大奥か』って思ってしまいました。

一つの世界だけでしか生きていないと、その人の常識は、いわゆる一般常識とはかけはなれていきます。

個性を失いますから常識人になれとは言いませんが

自分の考えを持つ上では、自分の生きる世界だけが世界ではない事を知り、別の世界も受け入れ、そこで自分の考えや価値観が出来上がって来るのだと思うのです。

子供が生まれ、保育園幼稚園に通うまでは親のやる事成す事が全てで、そこから全てを身につけます。どんな事でも全てが肯定の世界なのだと思います。
しかし、保育園幼稚園と別な世界を知った時、新しい発見や驚き疑問など そこで戸惑い、新しい世界でも生きる為には…と考えるようになるのだと思います。

別の世界を知る大切さ。
これが もし、生まれてずっと幼稚園にも学校にも通わずに家庭だけの世界で生きたとしたら、親の価値観がその人の価値観となり、人間が形成されていく。
これを考えた時に、二世問題もそうだと思うのです。


宝塚歌劇団内での事情聴取、ハラスメントはありましたか?と団員に聞いたとします。
ある人は ありました と。
ある人は ありません と。
同じ事案でも受け取り方は違うはずです。

第三者から見て これはパワハラだろう と、思っても、その異質な世界では特別な事ではない

こんな事は残念ながら、おみちでもありました。

主人から『狂ってる』『きちがい』と言われ、離婚も匂わされた事がありましたが、それでも私は家族の為、おやさまのひながたを通ってるんだくらいに当時は思っていました。

一つの世界しか見えてなかったんです。

未信仰の人が聞いたら「それはパワハラだろう」って思われる事なんて どこにもありますよね

でも、当人が思わないのは、そこには信頼関係と愛があったから。

昔は学校で、机ごと廊下に出されて授業受けさせられたり、職員室の前に正座させられたり(どんな生徒だったんだ)
今でも忘れないのは、足が届かない海が恐くて浅瀬にいる私を先生は抱えて足の届かない海に放り投げられたことも。
これだけを聞いたらパワハラだろうって事になって現代では問題になるのかもしれませんが、時代なのでしょうか
上下関係というより、そこには愛があって、厳しさの裏の愛を感じられていた
でなければ、当時の先生方は皆懲戒免職級です。

パワハラかパワハラでないかは

『そこに愛はあるんか』

ではないでしょうか

愛情からだったとしても、相手が愛を感じられなければ残念ながらパワハラとなってしまいます。

宝塚歌劇団側の会見を見ながら、夢が叶い希望に満ちた若い女性団員が何故死ななければならなかったのか、何故 この選択しか出来なかったのか、御両親はさぞかし辛い事だと思います。

長ければ長いほど伝統を守ろうとすると思いますが、その守るべき伝統は、形だけになっていませんか?
本来、繋げて貰いたいと願う代々の先人の想いは形よりも中身ではないでしょうか
そこを宝塚は初心に反ってみる時なのではないでしょうか

これは宝塚歌劇団だけの問題ではなく、どの世界、どの宗教にも通じる事ではないでしょうか

守っている世界が、歪んではいないか、その為には新しい水(第三者)を入れ、その目がどう見るのか を受け入れる

謙虚になる

大事だと思います。

一つの大事な命が失われてしまいました。
この命をせめて生かしてあげる事が、彼女がこの世に生まれ、神様が彼女に与えた尊い指命だったとし、生きた証となるように、表も裏も誰もが憧れ、先人達が作り上げた本来の
清く明るく美しく の宝塚歌劇団に、彼女のお陰様で変わる事が出来たと後世にも語られるようになって欲しいと願うのです。


誰かが犠牲のならなければ動かない
どこの世界でもあります。
残念な事です。

あの時、聞いとけば良かった…
そんな後の祭りは もう無しにして、人の話に耳を傾けましょう
その努力をしましょう

それだけでも 心 癒される人、命が救かる人は いるんです。

自分を守る

それって、見ていて気分悪いです。



ここまで言ったかぎりは

今度、やってしまった時には、おとうさんに正直に『ごめんなさい』します。

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