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逓減する旅の効用

ニュージーランドの天気予報は1度を指している。寒いけど、肌感では佐渡の冬よりは大したことがない。

さて

今後、なぜ海外旅行をするのか

これまで50カ国ほど足を運んできて、自分にとっての海外旅行ってなんだろう、なんのためにするんだろうと、わからなくなってきた。

海外に行ったことがなかった時は「未知」が多くて、確実に視野を広げてくれた。

小さい頃から海外に憧れていて、とにかく外の世界を見てみたかった。

まだ英語もままならない中でバックパックを背負って、タイからスタートさせた初海外旅(家族旅行を除く)はあまりの楽しさに、今でも鮮明に記憶されている。

ラオスが心地良すぎて、カンボジアに行けずに帰って来たのも含め、とても刺激的かつ豊かな時間だった。

当時旅に誘ってくれた友人対する、かけがえのない時間をくれた感謝を墓場まで持っていきたいし、今世は何があってもわたしの大切な友人であろう。

話が逸れたけど

最近渡航がしやすくなってきて海外旅を復活させてから、2度目の世界一周と憧れのニュージーランド滞在をしていて思う。

「未知」との遭遇率が低減している。

2度目の世界一周は18都市を周り、そのうち3/4は同じく国を回ったからかもしれないけど、未知との遭遇はあまりなかった。

旅の経験が増えると、未知は減る代わりに別の感情が得られるから、必ずしも悪いわけではないけど。

複数回目の訪問先は、懐かしかったり、思い出が甦えってくる。過去の旅で達成しなかったことや失敗をリベンジできたりもする。

初めての訪問先でも、遠くの国との共通点が見えたりして、これまで見てきたものや経験・知識を通じて、初見への理解が速くなる。

例えばニュージーランドにいるとヨーロッパみを結構感じる。オセアニア!!というより、ヨーロッパ風土。南島の自然や地形はアイスランドと似てるなぁとかそんな感じ。(島の成り立ちがプレートのぶつかり合いによるもので、アイスランドと確かに同じらしい。)

あ、でもニュージーの南島は結構感動できてる。絶対的な美しさによる感動がある。(未知ではないかもだけど。)

旅経験が増えれば増えるほど、「○○みたい!」がめっちゃできるようになる。もちろん違う部分は数多くあって、それは歴史由来か地形由来かとか色々観察するんだけど。

それでも、ある種のパターンとして認識され、自分の戸棚に、あらゆる事象がきれいに収められていく。

つまり、なかなか経験の戸棚をぶち壊すような事象に遭遇する(感動する)のが難しくなっていく

それでも海外はいきたい。というか、日本に留まることの方が不自然で、どうせ出かけることにはなるだろう。

なので対策を考えてみよう。

未知と遭う旅をするには

1つ目、人と旅をする。
一人での旅は「その土地×自分」という結果しか得られない。そこに「×誰か」を組み合わせることで、旅自体から得られる変化は増える。

ニュージーランドでは実践していて、もはやNZを旅しているというより、人間を旅している。

これは旅の対象を変えただけで、ほんちゃんの解決策なのかはわからないという課題は残る。

2つ目、旅の方法を加える。
HOWが変われば刺激も変わるだろう。バックパック旅行での世界一周から船での世界一周をした。

船の上で生活するということも、大学生の時に船でインドに1か月半ほどインドに行って帰ってきた経験があったので、それもあって、未知感が少なかったかもしれない。

そして、船が大きすぎて、船旅自体はらくちんだった。日常の家でゴロゴロしながら移動する感じで、むしろ日常に近い。これがヨットだったらおそらくとてつもない未知の体験だっただろう。

ただ変えるだけではなく、いかに日常と離れた経験になるかということが大事そうだ。日常からの乖離というとなかなか想像できなくて、船での世界一周だって十分に非日常として想像できるのに実際そうじゃなかった。

パターンとしての日常との違いではなく、日常にはない激しさ・厳しさのようなものが大事なのだろうか。

ストイックな旅がしたいのか、といわれると正直そういうわけでもないんだけど。

三つの目の方法は、極地にいく。
HOWでストイックになるのがピンとこないなら、WHEREを厳しくしていけばよい。

アラスカとか極夜の世界とか、極地には、これまでの経験に収斂しにくいところには未知が眠っていそうな予感がする。

実際、この前いった北極圏の海なんて、今までにみたことない光景で、やはりとても感動した。なんじゃこれ!!!があった。感動した。

結論、つらい思いをしたくはないが、未知を感じ感動したい。
だから、厳しさに耐えた土地に気安くいく。

というのが今の自分には良いのかもしれない。

昔はアラスカや極地はしんどそうで行く気もしなかった。そういう意味では、今がタイミングなのかもしれない。

さいごに、しつもん。

未知との遭遇を求めていたけど、その手段としての効用が低減して来たという話をした。

旅を進めていくと、得られる感覚は変わるというのはそう不思議な現象ではなさそうだけど、永遠に旅をしているひともいるし、旅はもう終わりにしました。というのもあまり聞かない。

尽きない感動を感じられる感性やマインドを持っているのかもしれないし、そうじゃないかもしれない。

旅の経験が増えることにともなって感じ方に変化はありますか?

その変化に対して何を思って、どう対応していますか。

もし思うことがあれば、出会いがしらにでもSNSでもなんでも、お聞かせ願いたい。

(余談)人間の旅はおもしろい

とはいえ、極地以外もこれから旅はするだろう。旅というか、わざわざ日本にいる必要もないからおでかけするだけだけど。

それらの土地に対して、感動が逓減されていくのは残念だとしても。

最近は人間という未知をたびするのがおもしろい。これまであまり人間の旅をしてこなかったから、私にとって、極地なんぞにいかなくても未知が広がっている。

知らない文化×知らない人間の旅 というのはちょっと難度が高すぎるから、知ってる文化×知らない人間から始める必要がある。

つまり自分の見知った土地にい続けることが合理的。でも、おでかけしたい。日本にいるのはなんだか難しい。うずうずする。
あ、でもこの問題も働き始めたら解決するか。「日本にいろ!」ってなるし。いまだけの辛抱。

てことは自由が確保された直近は、友達と極地じゃないところに遊びに行けたら楽しそうだな~

ボンボヤージュ

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