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サーフィン日記第一回:H30/3上旬オアフ島ワイキキ

水を感じるんだメーン

平成三十年三月に、初めてハワイはオアフ島の地を踏んだ。まだ肌寒かった京都とは打って変わって、暖かいながらも涼風の吹き渡る良い気候で、若いあんちゃんのTシャツから出たタトゥーだらけの太い腕、風にそよぐヤシの、日本のビーチに無理やり植えられたそれとは違う生命感、空港を行き交う人々のぶかぶかのアロハシャツ…異国情緒に心が浮き立った。

宿はワイキキの目抜き通りの近くにあり、一通り観光はしたと思う。ビーチも当然何度も訪れたが、海上に目をやると無数のサーファーたちが波に乗っている。ビーチには近代サーフィンの立役者、デューク・カハナモクの銅像が建っており、いつ見ても人々が捧げるレイが絶えることがない。

衆知の通り、ハワイはサーフィンのメッカである。というか、我々が知る形の近代サーフィンは先述のデューク・カハナモクらハワイの先住民たちが作り上げたものである。

小さい頃からサーフィンがしたかった。ある時テレビで世界中を旅しながら土地々々の名ポイントでサーフィンをするプロサーファーを見て以来、その生き方に憧れてきた。彼は大会の賞金、インストラクター、サーフブランドのプロデュースなどによって生計を立てているらしかった。

しかし、サーフィンほど参入障壁の高いスポーツも少ないのではないか。他国での印象はいざ知らず、日本でサーファーと言えば、黒くてヤンキーっぽい、またチャラチャラしたイメージが強いと思う。どんなスポーツも最初は恥ずかしかったり難しかったりするわけで始めづらさはあると思うが、サーフィンの場合なんとなく近づきがたい人たちばかりなので余計に難しい。

そんなわけで小心者の俺はそれまで夢想するだけでサーフィンを始めることは無かったのだけれども、せっかくサーフィンの生まれた聖地に来たのだから、ここで挑戦しないと後悔する、そう思ってビーチにあまたあるサーフィン小屋の中でも一番安くレッスンを受けさせてくれる店を訪れた。

受付に行くと、日に焼けすぎていて気づかなかったが店主は日本人の女性で、サーフィンが好きでハワイに移住して数十年ということだった。久しぶりに日本語で会話してほっとしつつ、レッスンに向かう。

まず、Tシャツを渡されるのでそれを着る。後で分かったことだが、これがないと腹や乳首がボードとすれてとても痛い。次に海中短靴を履く。ワイキキビーチはサンゴ礁があるので、これがないと足を切ったり怪我のもとになる。

さていよいよボードのところに移動すると、痩せはじめの頃のKONISHIKIのような大男が待ちうけていた。彼はグリーソンと名乗り、その日のインストラクターということだった。ここからはグリーソン先生の指示に従う。

後ろ脚にリーシュコードという、ボードが流されていかないようにするための紐を結びつけ、まずはビーチで基本の動きを確認する。立ち上がるときは、膝をつけたまま腕立てふせのように上体を起こし、次に膝立ちを経て立ち上がる。いたってシンプルである。しかしこれを水上でできるのかと考えるといささか不安は残る。

いよいよ海にでる。サーフィンは、どの波にどこでどういうタイミングで乗るかを見極めることと、波に置いて行かれないように腕で水をかくこと(パドリング)がむずかしい。そこへ行くと、レッスンではグリーソン先生が良さげな場所へ導いてくれ、さらにボードをもって加速させてくれるので端的に言えば難しいことはあまりない。あとはバランスであるが、このレッスンでは非常に大きなロングボードを使用していたので浮力も大きく、結論として俺は初めてのサーフィン、初めてのトライで立ち上がることができた。

この成功体験がなかったら、今に至るまでサーフィンを続けていたか怪しい。すばらしい快感だった。波の力を受けて、すいすいと海面を滑走する。

グリーソン先生はレッスン中ぽつぽつとサーフィン談義をしてくれ、それも面白かったのだがまた別稿にゆずろうと思う。とにかく、彼の中心理論は「水を感じるんだメーン」であった。

さて、以上が俺のサーフィン原体験。本格的にサーフィンを始めるのは同年六月に就職してから。今執筆している時点で、サーフィン歴は未だに三ヶ月に過ぎない。ここからどれだけ上達していけるのか、記録していきたい。

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