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日記:シャッター音at美術館

ついに期末のレポートラッシュを処理し、夏休みが到来した。多くの人がそうであるとおもうが、「この夏休みを利用してこんなことしちゃうぞ~」という構想はほとんどが自らの怠惰によって実現しないものだ。え、僕だけですか。 

ともあれ無為に時間を消費してしまうことに危機感を持ち、突如思い立って国立近代美術館を訪れた。芸術的、人文科学的な素養も教養もない私であるが、美術館や博物館といった場所は好きで、旅先に有名な施設があればまず尋ねる。

先人たちの創作から歴史に想いをはせたり、表現しようとしている意図を妄想し、解説がある作品についてはそれを専門家の模範解答をしてそれを答え合わせする。ずぶの素人ながらも、そんな自己完結した対話と内省が心地よいのだ。なので滞在時間はおそらく平均よりもだいぶ長い。

バウハウスとかいうのに触れたけど、ありゃあ家具も写真もかっこいい。さくらを抽象的に描いたあの絵も光がにじみ出るようで良かった。スパイラルジェッティとかいうのの記録映像もなんかおもしろかった。また、たまたま広島原爆投下の日だったので戦争に関する作品には自然、想いを馳せてしまった。

そうしてゆっくり展示を眺めていると、他の来館者が焚くシャッター音が頭に割り込んできた。反射的には、率直にいえば「うわ、うるせーな…」という思いである。しかし当然、撮影禁止でない作品を写真に撮っていることには何の咎もない。瞬間的な不快感は流し、そのまま鑑賞を続ける。

………いや、それにしても多くないか?

何のために写真を撮っているのだろうか、と疑問が湧く。

おそらくは思い出のためだろう。作品に相対して生じた心の動きを、いつでもふたたび喚起できるように記録する。よくわかる。しかしそれにしても多くないだろうか、と思った。写真を撮ることが目的になってないか?あなたは、それを複製してまた味わいたい、と感じたことそのものに向き合っているのか?と偉そうにも問いたくなる。

そういえばワンオクだったか、どこかのバンドのライブで動画撮影を許可したら~云々という話もあったな。

私が展示の写真をあまり撮らないのは、コピーは、ほんものの劣化版であるとなんとなく思っているからだ。いや、写真も芸術の一部だし、例えば写実的な風景画もいわばコピーなのかもしれないが、そうした作品は作者の主観を通してなんらかの意図を持って創作されている点で、無機質なコピーとしての写真とは違うように思う。(何度も言うが、私は完全なずぶずぶの素人で、これは芸術学的な指摘ではまったくない。それってあなたの感想ですよね?ってやつ。)コピーで喚起された感情は、より「小さい」ものになるんじゃないか。それでインスタントに満足してしまったら、ほんものの価値とはいったい何なんだろう。

いや、「撮影禁止じゃないから別に悪いことじゃないよね。」と言ったが、正直に言おう。こんなエントリーを書いているのは、純粋に、写真を撮っている輩が、スマホのシャッター音が気に入らなかったからだ。うるせーーー。コピーだのなんだのは、自分の不快感の正しさを補強するための理屈にすぎない。きれいでない感情からはじまったことを直視しないで、自分がいかにも冷静で理論的で正当だと主張するのは卑劣だ。

しかしなににせよ、僕はこれからも展示の写真はあまり撮らないだろう。作品に直面して、ぐるぐると妄想を膨らませ作者と対話した気になって満足するために、またそのうち美術館に行こう。涼しいし。


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