どこまでも好きな歌を、歌い続けるということ 【歌手・藤和也】
第一声、歌手になったきっかけを伺うと「歌うことが大好き!」と無邪気な笑顔でおっしゃった。
それが和也さんのすべてと言ってもいい。
現在63才。将来自分がその年齢になった時、そう言えることのできるものが果たしてあるだろうか。
そう思わせるほどさんの話しぶりは清々しい。
仕事と両立させながら、地元で演歌歌手として生きることは容易ではないことは、少し思いを巡らせれば誰でもわかること。
ただ磨さんの話しぶりには、それを軽く乗り越えてきたような印象を持たせる。あふれ出る言葉から見えた好き”なことを“続ける”ということの、手がかりとは。
ーー 藤さんは、小さいころから歌がお好きだったんですか?
藤和也さん(以下、藤さん):小さい頃、三輪車に乗り、片手には棒を持ち、ご近所を回りながら、よく畠山みどりの歌をうたっていたようだね(笑)。
高校生の時に友達と自作の曲を歌うフォークグループを組んで、そこで人前で歌う気持ちよさを知ったかな。卒業後は名古屋で就職して、職場のおじさんたちに連れて行ってもらった飲み屋で、北島三郎の「風雪流れ旅」を歌ったら、すごい拍手をもらって!心地よくなった。それがフォークから、演歌に変わっていくきっかけになりました。
そこからドップリ演歌にハマって。22歳で地元に戻ってきて、近くにカラオケの先生がいたので、そこの教室に通うようになり、初めて礼儀作法だとか、声の出し方とか、本格的に歌を習いました。その先生が所属していた団体で全国大会があって、歌唱賞をもらったのをきっかけに、カラオケの師範の資格を協会からいただいたんです。
ーー そして2003年に初めてのCD「天竜しふきの勘太郎」を発売されたんですね。
藤さん:だんだんと演歌も歌えるようになって、先生の資格も取った。そんな時に地元長野県の歌を一曲、自分の歌として欲しいなって思うようになったんです。できればCD化して、デビューって言うんじゃないんだけども、記念として曲が欲しいと思って。そんな時、飯田でイベントに出演するなかで知り合った方が曲を作られていて相談すると、「眠っている曲があるよ!」と。それが「天竜しぶきの勘太郎」だったんです。
この曲は地元を中心に異例の大ヒットを記録。通信カラオケに配備されたときは本当にうれしかったそう。その後、日本歌手協会のオーディションを受けて合格。
藤さん:今度は一流の先生に曲を書いてもらいたいという思いがでてきたの。せっかくお金を出して作ってもらうんだから。その時いちばん旬で有名な作詞、作曲の先生の名前をだしたら、ディレクターが怒って「そんなこというのお前くらいだ」って(笑)。
知らないってのは逆に強いもんだね。強い気持ちをもってお願いし続けていたら、作詞・作曲・編曲すべてが僕の希望する大先生に作っていただけることになりました。
そして、2枚目のCDとして発売された「おふくろ郵便」は、作詞は水森かおりの一連のヒット曲を書いていた木下龍太郎、そして作曲は岡千秋。レコード会社・徳間ジャパンに所属も決まり、名実ともに「歌手・藤和也」が誕生する。
ーー 発売に至るに様々な方とのご縁を感じます。口に出して実行しているからこそ、周りが協力してくれるということなのでしょうか?
藤さん:いろいろ深く考えないで言っちゃうんだよね。それで作ったCDが5千枚。それを売るのに苦労した。どうやってキャンペーンをやったらいいのかだれも教えてくれないから、一匹狼でCDを持っちゃあいろんなところで歌わせてもらったんな。
藤さんの奥様(以下、Tさん) :ディレクターに言われたことは、「たくさんの歌手がいる。みんなひとりで頑張っていて、徐々に芽が出てくれば会社としてもバックアップしますが、それまでは、自分で頑張ってください」と言われたの。
曲の良さと苦労が実り、発売して14年が経つ今でも追加注文が入っているという。
Tさん:普通は発売から十何年も経つと廃盤になるらしいんな。でも「おふくろ郵便」は追加の注文が未だに入るから廃盤にならない。徳間ジャパンのスタッフに「藤さんすごく頑張ってるし、いい歌はやっぱりいつまでも残りますね」と言われますね。
藤さん:おふくろ郵便」は(松川町)前町長が気に入ってくれて、松川町推薦曲に選んでいただいて。それが元で松川町のふるさと大使もやらせていただいております。僕も歌を通して町のために協力したいんだよね。お祭りとかに呼んでもらって歌ってもいいし。どんどん僕を利用してくれりゃあいいんな。
藤さんの記憶を補足するように登場していただいている奥様のTさんは、公私ともに父かせない存在で、お二人で「和也」と言ってもいい活躍ぶり。それを物語る三枚目のCD「おまえの涙」制作時のエピソード。
藤さん:カップリング何にしょうかと考えてた時に東京で、「藤さん、自分で作詞したものってないの?」って作曲の先生に言われたの。
そしたらうちの母ちゃん(Tさん)が、ちょうど僕が作詞したものをその場に持ってきてて、それを先生に見せたら「おお!これはいける」って、そこでもう決まっちゃった。
Tさん:いくつかあったなかで、私がいいなと思ってたのを、もしや!と思って持って行ったの(笑)。
ーー 今まで伺った活動を年齢で追っていくと一枚目のCDを出された時が47才。そして2枚目を出された時が50才。その時はまだお仕事と歌手活動を両立されていたんですか?
藤さん:まだ働いてたかなぁ。当時は働いていた会社でも「伊那谷・松川町から歌手が生まれた!」ということで、とても応援してくれたんな。それはありがたかった。それで52歳まで働きました。
Tさん:でもね、家の経済も心配だから、私の方は定年退職までは会社勤めを辞めなかったの。
ーー 3年前にはご病気を患われ、活動を休止されていましたね。
藤さん:60歳のときですね。ショーのためにいた大阪で倒れて、そこで3か月半入院しました。それまでいただいていた仕事をすべてキャンセルして。もう歌の生活は無理だなぁって考えたりしてね。でもお医者さんには「この病気は必ず治りますよ」と言ってもらって、だんだんファイトが湧いてきたんです。
ーー ご病気が何かの転機になったということは?
藤さん:退院してきてからボランティアに力を入れるようになりましたね。一回死んだような人間が新しく命をもらったんだと考えて、そのもらった命を、皆さんに喜んでもらうために使おうと。
Tさん:だんだん体調が戻ってきた2018年の新年の朝ね、ムクッと起きてきて「俺はどうも生かされている気がする。神様に、お前はまだ社会に貢献していないからって、生かされているような気がする。だから今年はボランティアに力を入れる!」って言ってね。
復帰された翌年、ふるさと大使として役場の町長室に新年の挨拶に伺った時にはこの事を公言し、計画書を提出したというエピソードも。2018年の介護施設への訪問回数はなんと74件。2019年も、取材をした12月で50件を超えている。その内容も、お年寄りの馴染みの曲を歌ったり、お手製の歌詞カードを配ったり、楽しんでもらうためのサービスにも大変気を配っている。
藤さん:また不思議なんだけど、退院してからボランティアやステージをやらせてもらっていると、なぜだか以前より他県の名古屋だとか岐阜だとか、遠方の方たちが応援してくれるようになって。向こうでも後援会を作ってくれたりね。病気する前の元気でがむしゃらにやっていた頃は、全くなかったんだけど、体を壊してそうやってから増えてきた。ご年配の方の応援が多かったなか、若い年代の方、ヤングマンも応援してくれるようになった。不思議だね。
ーー ご病気される前とはまた違う、何か見る人を惹きつけるものがあるのでしょうか。
藤さん:あるのかなぁ?ボランティアというのはお金はいただかないけど、それ以上のものをいただいて帰ってこれる。次のステップが踏めるような気持ちになるのを勉強して帰ってこれるって言うね。行かにゃあいかんっていう気持ちになる。ましてやそこで生活している方たちは、移動範囲も限られてコンサート会場にも行けないから、僕らが行って楽しませなきゃあという気持ちに、うんとなる。
ーー それこそ先日、介護施設で歌われるのを拝見して、感動しました。歌を通してお年寄りが楽しそうにされているのを見ると、これこそが音楽や芸術の神髄というか。
Tさん:ある施設を伺ったとき、終わってから職員の方から「私たちが何をしても一度も笑顔を見せてくれなかったおばあちゃんがニコニコして、初めて笑ったところを見てびっくりした」って。
ーー ちょっと泣けちゃいますね。
Tさん:ファンの方にも、東京でコンサートやれば運賃もかかるし無理しないでなって言うんだけど、でもそうやって足を運んで行くことが楽しいんだって、人生が。そうやってみんなチケット買ってくれる。みんなが楽しんでくれりゃあ、それでいいのよ」ってお父さん(藤さん)よく言うけど。
ーー 藤さんを通して、生きがいを見つけるきっかけにもなっているんですね。Tさんは現在こうやって一緒に活動されて、どんな気持ちでいらっしゃいますか?
Tさん:私は会社員として外で60歳まで働いて辞めて、退職後はこれからお父さんのことを応援できるなぁと思っていた矢先に倒れたら?
だから今は、好きで歌っているお父さんの応援をできる時ができたんだということ、不思議だなとも感じるし、幸せっていえばあれだけど・・・そう思う。
例えばお茶の時間に二人でお茶を飲むってことが、この年になって幸せに感じる。それでお父さんがこういうことをやっているので、普通のおばあちゃんが仕事を辞めてからはできないようなことを、やらせてもらっている。
それで応援してくれる方が楽しんでくれているのが本当にうれしいんだよね。若い時ならわずらわしいと感じてたことも、今は全然なくて穏やかな気持ちになっている。藤はステージで「おまえの涙」は紅白歌合戦を狙っているとかいうけれど(笑)、正直なところ、私たちはもうこれ以上大きくなれないと自覚しながらも、もしや・・・という気持ちは常に持っているの。
藤さん:この世界どんな歌がヒットするかわからないから、続けていれば何かチャンスはあるんじゃないかと。誰かが応援してくれているうちは、歌手っていうのは辞めることができないじゃん。だからこれからもずっと、その方たちの期待に常に応えなくちゃなっていう気持ちもあります。
ーー そうなんですね。ところで、イベントで共演した若い方たちが、「藤さんの背中を見るっていうのは勉強になる、音楽をずっとやられている先輩として藤さんがいらっしゃるのは、自分たちも頑張れる」と言っていました。
Tさん:若い人とイベントに出たときに、みんな「藤さんの偉ぶらない謙虚な姿に惚れちゃった。」と、後援会にも入るって言ってくれてね。30分やそこらのステージでわかるのかなあと思ったんだけど。
ーー そうなんですね。夢を見させてくれるじゃないですけど、若い方たちにとっては、特別な存在なんだと。ステージでの藤さんの振る舞いも、本当にプロ意識が高いというか、そこから憧れになるんじゃないでしょうか。
藤さん:別に威張ってしゃべらにゃいかんとかないし、自分は。接してくれたら接してくれたなりに、対応するし、それがうれしくなって見方が変わってくれるのかなあ。
ーー 歌が良いのはもちろん、それ以外でも惹きつける魅力をたくさんお持ちだと思います。
藤さん:たまに人に「もっと横着になってもいいんじゃない?」とか言われるんだけど、自分は好きで歌手になったじゃん。周りから頼まれて歌手になったわけじゃない。だから「歌わせてください、見てください。よかったらCDも買ってください」というスタンスでいたい。よく言うじゃない「原点にもどれ」って。皆さんおってくれてなんぼの世界。皆さんがいなければなんもできん。だからとても威張ったような気持ちにはなれんの。
ーー 最後になりますが、藤さんの信条や今のお気持ちを言葉に表すと?
藤さん:「人にやさしく接しなさい。そして喜ばれるように努力しなさい。(ステージが大きくても小さくても、やることは一緒なので)常に一生懸命やること」っていうのを常に自分に言い聞かせてやっているね。お金になるステージもあればそうじゃないステージもあるけれど、芸人というのは常に同じ気持ちでやらにゃいかんなというのは思っています。今は身体も調子いいし、歌って、喜んでもらって、それが一番いいね。
取材・写真:北林南
文:星野光洋
写真提供:藤和也音事務所
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