【インタビュー】人形師 どんどろ流 百鬼ゆめひな・飯田美千香
1990年代、「一人劇祭」を行っていた師匠・百鬼どんどろ岡本芳一氏との出会いから、2023年に「一人劇祭」を復活させるに至った経緯、3日間を終えての、飯田美千香の思いとは。
運命的な出会いから27年
師匠が残した「おもしろさ」をつないで
【インタビュー・ハイライト映像】百鬼ゆめひな・飯田美千香
心の赴くまま エネルギーが向う先へ
ーー 美千香さんが等身大人形遣いとして活動をするようになったきっかけは?
飯田美千香さん(以下、飯田さん): 鹿児島に暮らしていた1997年、たまたま休みの日にテレビをつけたらSBC信越放送( 以下、SBC)が制作した師匠(百鬼どんどろ・岡本芳一氏)の番組をやっていて、ちょっと不思議な、フィクションとノンフィクションが混じり合っている感じの内容でした。その番組を制作したことでSBCが賞を取って、同系列の放送局で全国で放送されていたのをたまたま見てしまったという感じです。
ーー 初めて見たときの印象は?
飯田さん: 自分の中では運命的でした。当時、祖父を亡くしたばかりですごく落ち込んでいて、亡くなった祖父とつながりたいという思いで般若心経を覚え唱えていました。そして、テレビから般若心経が聞こえてきて、見ていたら岡本さんが出てきたんです。
私は子どもの時から市松人形や能のようなもの、仏像や仏教美術のようなものも好きだったので、テレビの画面で岡本さんを見た時、中央アルプスを背景に般若心経が流れる中で能面のようなものをかぶって演じる姿があり、大きな日本人形もいて、その映像全体がものすごく美しく衝撃的だったんです。「これはなんなんだ」と思って、制作したSBCにすぐ電話をして、制作したディレクターに「番組が良かった」と伝え、「映像の場所に行って岡本さんに会ってみたい」と話したら、岡本さんの資料をたくさん送ってくださったんです。
その番組を見たのは1997年4月上旬でしたが、タイミング良く下旬に飯島町の千人塚公園の桜のもとで岡本さんの舞台があると知り、当時私は旅行会社に勤めていたので、自分で手配して行きました。
ーー 当時は会社員だったんですね。すごい行動力ですね。
飯田さん:そうなんです。旅行会社にいなかったらどうして良いのか分からなかったと思いますが、昔はJRの分厚い時刻表を仕事で毎日見ていて、当時の上司からは「君たちはこれがあれば世界中どこでも行ける」と言われていたので、どこにでも行ける妙な自信があって。その頃は個人旅行も旅行
代理店等でないと手配が難しい時代だったので、旅行会社で仕事をしてい
たことは、大きかったです。
念願の舞台を見た後は「また岡本さんの舞台を見るために仕事頑張ろ
う」と思って帰った記憶があります。
ーー 初めから「人形遣いになりたい」というよりは、岡本さんのような方の存在自体に衝撃を受けたという感じ?
飯田さん: そうですね、歌舞伎を見ておもしろいと感じたりしていましたが、自分自身が表に立つ人間になるということはまったく考えていませんでした。引っ込み思案というほどではないですが、大勢で歌う合唱の舞台でも吐きそうなほど緊張するタイプだったので、最初は母がすごく心配していま
した。
ーー 弟子になろうと思ったきっかけは?
飯田さん: 初めて舞台を見た直後、6月に東京公演を見た時です。舞台を見て、飯島町に来たくなってしまって。岡本さんに行っても良いか聞いて断られたら嫌だったので、帰ってすぐ当時の勤務先に辞表を出し、6月いっぱいで辞めました。バブル時代を経験していると、いざとなれば仕事は見つかるという幻想があったんです。岡本さんに受け入れてくれるかどうかを聞いて、返事次第で仕事を辞めるか判断するというのは自分の中では違うなと、
賭けようと思って。それで「7月に行きます」ということを岡本さんに言っていました。それまで岡本さんと何度か話す中で、「良い」と言われてから辞めるより、勝手に決めて行くほうが受け入れてくれる予感がしていたのかもしれません。
ーー イチかバチかに賭けたという感じ?
飯田さん: そう、イチカバチかで「来ちゃいました」という感じです(笑)。実は百鬼どんどろは当時2人体制で、1人が辞めるタイミングで、1つしかない席が空いたところに私が座った、という感じで。もしその方が辞められなかったら、こちらでまず住まいやアルバイトを見つけて、という状況になっていたか、居場所がなくて帰っていたかもしれません。
ーー 奇跡的なタイミングですね。美千香さんは飯島に来てからは、ずっと岡本さんの側について学んで、という日々だったのですか?
飯田さん: はい。最初の7年間は岡本さんのそばで学んでいて、住まいも稽古場でした。岡本さんは海外での仕事が多く、最初「海外に連れて行くためには舞台照明ができないと連れていけない」と言われて、できるかどうかもわからないけれど行くしかないと思い、「やります」と言いました。
本来、私のような知識も経験もない素人では仕事になることではないのですが、海外では文化の違いで大目に見てもらったり、劇場で公演するにあたってのルールや条件などもあり、当時は、私でもできることがありました。とはいえ、同行した日本人の舞台スタッフに「何でこんな素人と一緒に仕事しなきゃならないんだ!」と言われることもあり、さすがにその時は悔しくて大声をあげて泣きましたね。
決して向いているとも思えなかったけれど、ずっと舞台照明をしながら
岡本さんの動きを見て学んでいったという感じです。
そして、2001年あたりから「夢人形ひいな」としてソロデビューを
しました。「ひいな」とは昔の言葉で「人形」という意味です。
ーー 今の「百鬼ゆめひな」とは少し違うイメージですね。では最初は舞台照明で学びながらソロ活動もされて、その後人形の制作もされていったんですね。
飯田さん: はい。実は最初は岡本さんについて詳しく知らないうちに来てしまったので「なんだかわからないけれど、舞台の世界なんだ」という感じでした。知りすぎていたらこんなふうに行動するのは無理ですよね(笑)。
ーー とても勢いある行動ですね。
飯田さん: 当時「自分探しの旅」という言葉が流行っていたと思うのですが、好きなことが見つからないことがすごく苦しかったんです。エネルギーが今以上にあったでしょうし、悩んだり悶々とする日々の中で「トンネルの先が見えた」ではないですが、未知の扉が開いて、そこに向かってまっしぐらという感じでした。エネルギーはかなりあったと思います。夢中になるものを見つけることって奇跡的な出会いだから「常に探していないといけないだろうな」と思っていました。昔やっていたピアノをもう一度やってみて「ダメだ、これじゃない」と、色々なことに手を出してみたり、友達といてもどこか上の空で寂しくなったり。24〜25歳の頃は、結婚なのかとか。そんな日々を繰り返していた鹿児島時代でした。
ーー 本当に運命的な出会いですね。岡本さんが亡くなられたのは2010年ですが、現在どんどろ流を受け継がれているのはゆめひなさんだけですか?
飯田さん:そうですね。岡本さんに隠し弟子がいなければ(笑)。影響を受けてやっている人はいますが、人形操演の手ほどきなど稽古をしっかり受けていたのは私だけだと思います。
辺境の地で感じた「ありえない」
ーー 今回開催の一人劇の公演&ワークショップ「伊那谷化けるんです。」は岡本さんが主催していた「一人劇祭」を飯島で復活させたいという思いもあったとのことで、96年に終わってから、実に27年ぶりということですか?
飯田さん: 実は 年か 年頃、「一人劇祭」が終わってからも「なくしちゃいけない」という同志の方々が集まって「一人劇本舗」という形で、小規模ですが継続する動きはあったんです。岡本さん主催ではなくなりましたが、岡本さんが出演し、ゲストも呼んでいました。その後、一人劇本舗は2回開催し終了しました。
ーー このタイミングで百鬼ゆめひなとして「一人劇」を復活させたきっかけなど、ありますか?
飯田さん: 岡本さんが生きている間は意識していなかったのですが、岡本さんが亡くなってから、飯島町で岡本さんの話になると「一人劇祭」が絶対に欠かせないんです。等身大の人形を使った岡本さんや海外でたくさんの舞台をやっていた岡本さんではなく、「一人劇の岡本さん」ということで、私が
思っているよりも町の方に深く心に残っているものだったんだな、ということを感じる機会が多くなりました。それが思っている以上にすり込まれていたというか、資料を整理しても、もし当時もっと町とタッグを組んでいたら、めちゃくちゃおもしろい、全国でも珍しい文化として残っていただろう
に、もったいないと思うこともありました。この辺りの80歳90歳近いおばあちゃんと話していて「赤土類(舞踏家)さんが、ギリヤーク尼ヶ崎(大道芸人・舞踏家)さんが」とか、すごくコアなパフォーマーのことを語るのを聞いて、「こんなのありえない」と。こんな辺境の地でコアなパフォーマーを見たことがあるお年寄りの方がいるということが「おもしろい」と思ったんです。
ーー それで、エネルギーが湧いてきたんですね。
飯田さん: そうですね、これまでは自分の作品、自分の公演のことで頭がいっぱいで。今まで自分の中で一人劇祭は「岡本さんが一生懸命やっていたこと」で終わっていたのですが、自分の活動も含めて、伊那谷に何か根付いていきたいと思った時、「一人劇」はすごく大きなキーワードになるのではないかと思いました。
個性あふれるメンバーたちと
共に創り上げる興奮の3日間
ーー 今回は、協力者がいた中でも、企画から運営まで、ほぼお1人でされたことがたくさんあったと思います。3日間が終わって感想は?
飯田さん: すべて想像以上だったというか、よく世の中で「努力は必ずしも報われない」と言われていますが、やっただけのことはあるのではないかと思いました。自分なりにできる限りを尽くしてきたから、「やれることをやって良かった、いろいろポカはあったけれど」と思います。やって無駄なことなどないと思いました。
ーー 公演も会場いっぱいのお客様でしたね。60〜70年代に地下演劇など盛り上がっていた頃はこういう感じだったのかなと、想像してゾクゾクしました。今回は美千香さんと3名のソロパフォーマーの公演がありましたが、この3名を選ばれた理由は?
飯田さん: 自分に影響を与えてくださっている3名にお願いしましたが、よく考えてみたら皆さんソロ専門ではなく「1人でもできる」という方たちだったので、ちょっと無理なお願いでもあったかもしれません。
舞台芸能師の加藤木さんは、師匠の岡本さんがいなくなって、舞台人として分からなくなったり迷った時に、何か教えを受けたいというか、ご意見をお聞きしたい方です。舞が本当にすばらしく、加藤木さんが暮らす阿智村から生まれるすばらしい舞台を、ぜひ上伊那の方たちにも見てもらいたいという思いがありました。
舞踊家の蜜月さんは、2015年頃、舞台をご一緒したのですが、その時の戦友のような感じです。能楽師や狂言師の方からお声かけいただき、都内の高級ホテル内にある能楽堂で著名な方と舞台を行いました。田舎で牧歌的にやっていたのが、急にすごく華やかで高級な感じの場所で舞台を行い、見たこともない世界でした。その中で蜜月さんと私は姉妹の役で、2人で主演のようなことをやらせてもらっていて、私たちはその中で切磋琢磨しあっていたという印象があります。
蜜月さんとは、自分たちの表現を模索し葛藤もしながら、お互いに頑張り励まし合っていた同志として、すごく合っていたという感じです。そこからずっとお付き合いさせていただいていますが、蜜月さんは週2回インスタグラムのライブで身体の動きに関するオンラインレッスンをやっていて、コロ
ナを機に私も受けるようになりました。私もそのおかげでパフォーマーとして立ち方がとても良くなったことを実感しました。なので、舞はもちろん、ぜひワークショップをやってほしいと思い、お声かけしました。
ーー とても面白いワークショップでしたね。蜜月さんは、普段はダンサーなど専門でやっている人に指導されているようで「一般の方は初めて」とおっしゃっていました。
飯田さん:蜜月さんご本人もあの日のワークショップがすごく刺激的だったようで、「夜眠れなかった」と言っていました。参加者の方も楽しそうで、興奮されていましたね。すごく良いエネルギーの空間だと感じました。
ーー 3人目のパフォーマー・u-ichiさんは、会場でもあるアグリネイチャーいいじまの支配人さんでもありますね。
飯田さん: u - ichi さんからもすごく影響を受けました。u - ichi さんと出会って千人塚の祭典など若い人たちが色んなことをやっているのを知り、これまでもu -ichi さんのイベントに呼んでいただいたことで、自分が今まで何年も住んでいるのに出会わなかった、飯島町で活躍されている30〜40代の方たちにたくさん出会えましたし、今回「伊那谷化けるんです。」で
もたくさんの方に協力いただきました。
それと、u - ichi さんに人形を使ってもらって、人形がヒップホップダンスを踊ったら絶対におもしろいと思っていて、自分の中では写真撮影のときから想像できていたんですよね。
ーー 色んな人と知り合うきっかけを作ってくれたり、新しい飯島町の一面を見せてくれたというところでしょうか?
飯田さん:そ そうですね。今回の「伊那谷化けるんです。」では、パフォーマーとしてだけでなく、企画運営においてもすごく大きな力になっていただき、イベントをするという面でも、とても影響を受けました。
ーー 先ほどの「やってよかった」という感想から、得るものがたくさんあったのかと思いますが、今回を通して他にもゆめひなさんの中で新しい発見や気づきなどありましたか?
飯田さん: 人との繋がりやその広がりですが、これまでの公演と違うことをやれば、違う広がりが生まれるというのは幻想だなと、正直思いました。今回、チケット申し込みの反応がない時期があって「このままで良いのだろうか」と、すごく悩んで。上伊那で活動している方たちの舞台を観に行って
もそれきりで、その後の交流がないことに気づきました。たまたま駒ヶ根で市民ミュージカルを行なっているA - Stockシアターの方がチケットを予約してくださっていたので、普段だったらあまり口に出さないのですが、思い切って「すみません、広がりに悩んでいるんです」とざっくばらんに相談したら、「もっと上伊那の演劇人とつながりましょうよ」と言ってくださいました。こちらは勝手に同じ舞台だけど人形だから興味ないだろうとあまり交流しようと思わなかったのですが、関係なく舞台をやっているということで、自分も観に行っているわけだし、そういう方たちにもっと積極的に「ぜひ観に来てください」と声をかけたりしないとダメだと思いました。「上伊那の演劇人の方たちとつながりたい」と思って行動を起こしたのは、私自身初めて
のことでした。
ーー とても大きな気づきがあったんですね。
飯田さん: 放っておくとコンフォートゾーンから出ないというか、新しいことをしなくてもできることをやっていけば良いと思っていたけど、それでは立ち行かなかったので、もっと色んな人に会わなきゃダメだと思うようになりました。
それと、今回のイベントを開催するにあたって、色々な面で自分しか理解できていないことがけっこうあるんだな、という気づきもありました。イメージを自分の頭に思い描いたら、自分だけがわかって満足しないで、どうやってアウトプットしていくかということを、もう少し勉強したいと思いまし
た。
一方で、今回は信州アーツカウンシルからの支援をはじめ、地元企業から協賛をいただいたりと、多くの方の協力がとても心強く、励みになりました。
ーー 今後「伊那谷化けるんです。」の第2回目の開催は、今の時点で考えられていますか?
飯田さん:それほど大規模ではなく、ギュッとしたような空間の中でやりたいですね。今回は3日間の日程でしたが、すべて参加したいと思うと3日間来ていただくことになるので、日程をずらしたり、会場をもうひとつ増やすなど考えています。
それはさておき、一人芝居に特化している方で、他にどんな方がいらっしゃるのだろうと思っているので、もうちょっとリサーチしてみようと思います。
「本当に観たい人だけで
いっぱいの客席にしたい」を胸に
ーー 今回のイベントを通して美千香さんが伝えたかったこと、観てもらいたかった場面などはありましたか?
飯田さん:長年舞台をお手伝いいただいている仲の良い方から「飯島でお前のことを知ってる人は誰もおらんぞ」と言われて(笑)、「自分はやるだけのことをやっているのにそんなことを言われても困る」と思っていたけど、誰も知らなくても良いなんてちっとも思っていないし、1人でも多くの方にどんどろ流の一人劇の人形の舞台を知ってほしいという思いは強くありましたね。ひとつ言えるとするならば、実はこの方に「お願いします」と頭を下げたら50人や100人と集めてくださる方がいらっしゃらないでもなかったのですが、今回は純粋なお申し込みの方だけの客席にしたいという思いがすごくありました。
ーー 義理などではなく、純粋に観てみたいと思ってくれる人でいっぱいの空間にしたかったということですね。実際、会場のギュッとした空間全体に、ソロパフォーマーとお客さんとの間に、すごく良い緊張感が生まれていましたね。
飯田さん:そうですね。いっぱいにならなかったとしても、今回はそこにこだわりたいと思いました。
それと、今回舞台監督をしていただいた坂井宏光さんはじめ裏方の方たちには、途中から関わっていただいたのですが、あの状態で引き受けたら巻き込まれて大変な思いをするというのは目に見えていただろうに、よくやってくださったと、本当に感謝しています。
ーー 運営側も義理ではなく、気持ちで動いている方たちがたくさん集まられていたんだろうと思います。
飯田さん:そうですね。昨今の流れを見ていても、ビジネスとして関わるということでなく、気持ちだけで関わっていただけるということは、このシビアな世の中では、なかなか考えられないことで、今回は普通ではあり得ないような有難いことがたくさん重なって終えることができました。本当に感謝しかないです。
「引っ込み思案の目立ちたがり」からの自己解放に夢中になる
ーー ワークショップもそれぞれ4名の個性に触れられた内容でしたが、美千香さんが行った「人形を作って動かしてみよう」というワークショップもとても面白かったですね。狐の面に色を塗って、最後にその面をつけて、自分が作ったストーリーを演じる。お面をかぶると、自己解放というか、普段の自分ではできないようなことができそうな印象を持ちました。
飯田さん:実は私自身もそうなんです。人形とお面があると、俳優さんとはフィーリングが違うんだなと感じます。自分が表に出る俳優さんと違って、いつもこちら(人形)を主役にして、自分はいかに良い脇役でやるかなので。よくお師匠さんから「引っ込み思案の目立ちたがりほどかっこ悪いものはないぜ。」と言われていました。素の自分で舞台に立つと恥ずかしくて全然動けなくても、人形があれば立てるんです。でもそれを引っ込み思案の目立ちたがりではなくて、ちゃんとアートに昇華させたいと思っています。他に言葉がないので、アートという言い方が適しているかわからないのですが、きちんと表現として成立させたい。最初は引っ込み思案の目立ちたがりの人の方が素養としては良いのですが、そこから離れて目指すものを目指していきましょうということです。
お面をかぶるとワークショップでも「面を被った自分が〇〇の役で、人形が本当の自分で」みたいな設定になって、自分自身が作ったテーマから自然と自身の根底にある感情を垣間見るようで、「やっぱりそうなるよね」みたいになります。私はそういうものも含めて、好きなことが見つからなくて苦しい時期があっても、こんな方法で発散できるんだよ、ということを1人でも多くの人に知ってほしいです。自分の出し方、正しいアウトプット、自己顕示欲なんか言っていられないぐらい夢中で稽古をして、小さくても良いので自分を表現する舞台を経験してもらったらすごく良いんじゃないかと思います。それが理由で教室も始めて、気持ちがしんどい人は一度来ていただくと良いんじゃないかな、と思っています。
ーー 大変内容の濃い3日間でしたね。次回を楽しみにされている方もたくさんいらっしゃると思います。最後に、何かお伝えしたいことなどあれば、お願いします。
飯田さん:そうですね。そろそろ劇団員募集ではないですが、一緒に舞台をやってみたいという方がいらしたら良いなと思っています。ちなみに私は、弟子入りしてすぐに舞台照明をやることから入って本当に良かったなと思っていて。舞台照明を経験したことで「これじゃない」というのが分かるようになったので、注文もつけられるようになりました。舞台上ではどんなふうに照明を当てられているのか分からない、ということがなく、演出がしやすくなったので、それはやってよかったなと思います。やって無駄なことはないから裏方は絶対にやった方が良いと思っています。自分のやってきた過程のように、人形を持って色々な経験を重ねていくと思うと気が遠くなってしまうかもしれませんが、それでも誰か来てくれて、一緒にやっていけたら良いなと思っています。
ーー ありがとうございました。
インタビュー・文:北林 南
写真:中島拓也
伊那谷化けるんです。ー【後編】2、3日目ワークショップ、レポートはこちら
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?