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母親とこたつでこんな話、しないものな。

昨日の日曜日は飯山の実家で今季最初の雪下ろしでした。
豪雪地帯の人はわかると思うのだけど、雪下ろしのときはいろんな話が出る。
基本、単純労働だからね。
六十を超えた母と雪下ろしをしていると、なぜかぼくの子育てについての話になった。

ぼくは習い事にも興味がないし、子どもにあれれこれ言うこともほとんどない。
宿題やらなくたって自分の責任だし、ぼくは本が好きだけど子どもに本を読めと一度も言ったことがない。

「子育てについては特にないなあ」というと、そんなことはないだろうと母が雪をシャベルで下ろしながら言うので「うーん」と考え込む。

八歳、七歳、三歳の子どもがいるけれど、唯一続いていることは『いいな』と思ったらすぐ口に出すことだ。

食卓についたら「箸が上手になったなあ」とか、「こぼさなくなったね」とか、「いっぱい食べれるようになったなあ」とか毎回言っている。

子どもが服を着替えたら、「着替えるの上手になったなあ」とか、「服の組み合わせのセンスがいいよね」とか言ってる。

遊びで絵を描いていたら、「色づかいがいいよなあ」とか、「人の捉え方がうまい」とか言ってる。

遊びで詩を書いていたら、「この発想はすごい」とか、「全体のリズムがいい」とか言ってる。

母親の前でもいつもやっているから、「お前は本当に親バカだ」と言われるけれど、あれは意識して『いいと思ったらすぐ口に出す』ようにしているから、それが子育てと言えば子育てかなぁと答えた。

雪と格闘している母はそれを聞いて、「それは何のためにやっているのだ」と尋ねてきて、ぼくはまたうーんと考え込んだ。

『何のために』という目的性はほぼない。
例えばそうした方が子どもの情緒教育によいとか、そういうデータを探せばあるかもしれないけれど興味がない。

『何のために』とか、『子どものために』という視点を子どもに対して持ち込みたくないという気分がぼくにはとても強い。
そういう風に子どもと接したくないという気分が根拠もなく強くある。
なぜかは知らない。気分だ。

それでも答えを待つ母に(しつこいのだ)、長考の末、「それはたぶん、自分は生きてきて良かったんだと思ってほしいからだと思う」と答えた。

ああ、と母は納得したような感じでその話は終わった。

ここから先はぼくが文章化しておこうと思ったので書いておく。
(ぼくは文章化しないと自分の考えがまとまらないのだ)

八歳、七歳、三歳の子どもたちはこれから順当に挫折を味わうんだろうなーと思っている。
自分が実は世界の中心にいないのだということを実感したり、仲間はずれにあったり、いじめられたり、いじめたり、自分が思ったより嫌なやつだということを知ったり、嘘をついたり、人を裏切ったり、才能のなさを知ったり。

自分もそうやって生きてきたし、今だってそうだ。
でも、どんなに自分で自分をくだらないと思っても、他者にお前なんか生きる価値もないと言われても、最後の最後で、「この世に生を受けて良かったんだ、ここにいていいんだ」とうっすらとでいいから思ってほしい。

それは何というか、子育てというよりも、親としての存在意義のような感じとして。

食べて、寝て、大きくなって、友だちができて、一人で生きていけるようになるまで共に暮らすことが親の役割だとしたら、その生活のなかで「自分はここにいていいんだ」と信じるに足る気分を持ってもらえたら、親としてのぼくはそれ以上のことはない。
そこから先は自分でやっていくのを、一番近い他者として見ていたいという気持ちがある。

雪下ろしは大きらいだけど、思いがけず母親とこんな会話を交わす効能もある。
母親とこたつでこんな話、しないものな。

(二〇一三年一月)

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