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大人になれば 09『ようこそ・何万年・音楽について語られる言葉』

春ですね。
前回と同じ出だしですが、春なんだからしかたがない。

三寒四温を繰り返していく春の始まりで、ちょっとずつ暖かくなっていくのが好きです。寒い日があっても、次は暖かくなるんだと分かっていると平気。希望の力はすごいのだ。

春、ようこそ。
春、ウエルカム。
春、好きだ。

なんか文章スタイルが乱れていますが、春なんだからしかたがない。春はなんだか新しいことがしたくなる。新玉ねぎの旬だって春だ。関係ないけど。
最近、ぼくは形にしたいことがあって、三つのことをぐるぐると考えている。

「楽しいや悲しいやわくわくする記憶は遺伝子レベルで受け継がれるのか?」
「ぼくたちはただの物質なのに、なんで悲しかったり笑ったり辛かったりするのか?」
「開かれていること、意味はわからなくても共振することってどういうことなのか?」

この三つのことはお互いが関係しあってるようにも思えるし、同じことを問うているような気がする。組み合えば一つの絵のようになるんじゃないだろうか。ジグソーパズルのように。
そんなことを思いながら、毎日ぐるぐる考えている。運転しながら、お風呂に入りながら、ご飯をたべながら。たまに頭が煮え煮えする。そして、ぼくはこんな話を思いだす。

実験用の迷路を作る。
右、右、右とひたすら右折を繰り返すと餌があるゴールに辿り着けるというネズミの実験。途中で左に曲がると電流が流れる。
この実験をずーーっと続けていくと、ネズミの子孫は最初から右、右と曲がるようになるという話。もしかしたら、生命は遺伝子レベルで記憶を引き継いでいるのかもしれないという推論。誰に教わったわけでもないのに秋になると鳥が南へ渡るように。

本当かどうか知らない。どこで読んだかも覚えていない。
でも、ぼくはこの話が好きだ。

もし、そうだとしたら。
今のぼくのわくわくしたり、悲しかったり、音楽に胸をあつくしたり、誰かを想ったりするこの気持ちが何千年も何万年も受け継がれてきたものだとしたら。

鬱蒼とした森が千切れんばかりに打ち震え、轟々と風がうなる大嵐の夜。洞窟の奥でただ震えているしかなかった数万年前の彼と、今のぼくのこの気持はつながっているんじゃないだろうか。
美しい満月の夜、焚火のはぜる音に誘われ、手を叩き、声を上げ、思わず踊らずにはいられなかった数千年前の彼らとぼくのこのわくわくした気持はリンクしているんじゃないだろうか。

ぼくの後ろには何千人ものぼくがいて、ぼくの前にもきっと何百人ものぼくがいて、ぼくは今までの何万年分の気持ちを受け継いで、そこに今のぼくの気持ちをほんの少し積み重ねて、これからのぼくにそっと受け渡す。バトンのように。
そんなことを考えると、なんだか少しだけ勇気が出る。そして、なんで自分がここにいるのか少しだけわかるような気がする。

スコラ 坂本龍一 音楽の学校』を観ていると、こんな何万年も受け継いできた気持ちについていつも思い出す。
ぼくは音楽に詳しくないし、楽器もできない人間だけど、音楽について語られる言葉が好きだ。音楽について語られているはずなのに、そこでは命について語られているような気がするときが多々ある。

シンコペーションがあることで、なぜぼくたちはグルーヴを感じるのか? なぜ、「ずれ」があることでぼくたちは生き生きとした音楽を感じるのか? ずれや揺らぎって命と関わっていることなんじゃないだろうか? そもそも、なぜぼくたちは音楽で胸を揺さぶられたりするのだろうか?

「なぜ?」についての答えはぜんぜん分からないのだけど、ぼくがもやもやと考え続けている三つのことって、人々がずっと考え続けていることなんじゃないだろうかと思ったりする。音楽や芸術や暮らしの中で。答えなんてないのだとしても。

執筆:2014年4月13日

『大人になれば』について

このコラムは長野市ライブハウス『ネオンホール』のWebサイトで連載された『大人になれば』を再掲載しています。


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